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『俳句の宙』2021 精選アンソロジー




 高野礼子の一〇〇句から


 高野さんは「風の盆」の町、八尾町出身。祭の日々を除いては、山間の小さな静かな町といった感じである。あの物寂しい胡弓の音と、顔を笠に隠して踊る若い男女の姿が小生の脳裏に生きている。

 現在は我孫子にお住まいで、そこで「遊牧」の塩野谷仁(「遊牧」前代表)さんの教室に出会った。昔から文人の棲んだ町として知られている。

 琴線に触れた句を抽出して見た。


フェレンツェへつながるポスト大花野

熱の手で触れ冬木の芽眠らせる

駆けてくる少女ひらがな春隣

日脚伸ぶ摑みきれない水の私語

仲直りできぬ金魚と目が合いぬ

検査後の飴細工見る日永かな

負けたふりして野葡萄のなかにいる

春の鳶陽だまり色を背にのせ来

花過ぎの両目かがやくみすゞの詩

言い訳に樗の花をまぜてみる

置手紙のように猫いる十三夜

朗読もいいね窓辺の梨の花

小春日のベンチポタージュ的な午後

懐かしさとはふと過ぎる石鹸玉

犬ふぐり一茶の涙かもしれぬ


 特にイチオシだった句を鑑賞してみよう。


日脚伸ぶ摑みきれない水の私語

 春が近い。小川は眩いばかりの光を運んで流れている。水がなにかを囁いている。「私語」とはうまく言った。嬉しそうな感じの独り言か、ひそひそ話か……。聞き耳を立てて言葉を受け取ろうとするのだが、よく分からない。春を待ちわびる作者の感覚は、よく分かり、それが読者に伝わってくる。


置手紙のように猫いる十三夜

 「置手紙のように」がうまい。そもそも置手紙とは格式ばったものではないが、通常は、とても大切なことが書かれている。それを猫に喩えた。仔猫とちがって、どっしりと落ち着き払った猫なのであろう。一家の主のように動じない存在なのかもしれない。問題は「十三夜」である。これをどう読みこなすか……。最高に美しい十五夜ではなく、その次に美しいとされている陰暦九月十三日の月である。単に、夜気が少し寒くなった時候を言っただけではないような気がしている。結論は難しくて、深読みは諦めたが、余韻が残っている。


懐かしさとはふと過ぎる石鹸玉

 「過(よ)ぎる」と読むのであろう。この感覚はよく分かる。過ぎ去ったことは儚い。大事件であっても、自分の転機になった出来事であっても、何十年も過ぎて見れば、儚く消えるシャボン玉のようなもの。ただし、折にふれ思い出す。それは、ふらふらと飛んでくる石鹸玉のようで、来し方を思い出させてくれる。齢を取ると、それがたびたびなのである。 


犬ふぐり一茶の涙かもしれぬ

 「犬ふぐり」は可憐な花で、その名前が可哀そうなくらい。どちらかというと爺むさい「一茶」には相応しくないような感じがするが、「涙」と言われると、納得する。若きも老いも、涙は清澄なもの。「涙」という予想外の見立てにはっとした。


 沢山の佳句をありがとうございました。

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