稲畑汀子さんは2022年2月27日に亡くなられた。「朝日俳壇」の選者を勇退されておられたので、心配していたのだが、まさに巨星墜つの感があった。
この『集成』は、2022年5月20日、朔出版によるもの。500頁をゆうに超える『集成』に80年の句業が収められている。栞には、宇多喜代子、大輪靖宏、長谷川櫂、星野椿の皆さんが思い出を寄せられている。稲畑さんは、この『集成』の発行を見ずに黄泉に立たれた。残念である。
小生の俳句歴は正直言って「ホトトギス」から距離があったので、稲畑先生との個人的な接触はほとんどなかった。ただ、偶然に蚶満寺(かんまんじ)(秋田県にかほ市)で出会ったことがある。「ホトトギス」の地方吟行会があったのであろう。大勢のお仲間と一緒に寺から出て来られるところだった。小生は個人の旅で、何度目かの蚶満寺詣でであった。芭蕉の『奥の細道』にある、
象潟や雨に西施がねぶの花
で有名な寺である。そのころ、小生は京極杞陽を書き終わったころで、稲畑さんには「虚子記念館」あてお届けしてあったはずである。そのことをお話ししただけのほんの一、二分の立ち話であった。
しかし、稲畑さんとは多くの俳論を通して接触してきた感がある。印象深い記事がいくつかある。
その第一は、俳句とアニミズムに関する金子兜太との激論であった。このことは拙著『俳句とは何か』に書いたので、論争を再録しておこう。原典は「俳句界」平成23年1月号である。
アニミズム論 金子 最短定型詩というのは、命に一番触れやすい形式だという体験を私は持ったんです。最短定型のおかげで、私はかなり命に直に触れ得たという思いがありますね。ですから、今の若い人たちは植物とか小動物とかの付き合いを大切にするみたいだから、それはいいことだと思います。それをもっと積極的に体験して、そこで命を体験する。私はそう思うんですね。人間同士の命を体験するのは、なかなか出来ませんからね。今の時代、道徳とか倫理が入っちゃって、人間が律儀になっちゃう。生じゃないんですよ。誰かが死んだとして、その亡くなったひとのことを理屈で考えたりするでしょう。それは命に触れているわけじゃないわけ。だから本当に直に命に触れる機会を持たなきゃ駄目。俳句というのはそのチャンスだと思います。 稲畑 だから、私は、二十一世紀のキーワードは「自然」だと、早くから言っているんです。俳句を作ることによって、いろんな事柄を吸収していける。若い人はもっと自然に親しんで欲しい。 金子 「自然」と言っちゃうとぶれちゃう。私は、「生き物感覚」と言っているんですけどね。 稲畑 だけど、金子さんも私の真似して、自然がキーワードだって言ったのよ。 金子 そうかな。いのちの世界が自然だからね。 稲畑 どこかで書いていたわよ。ただ、「人間も自然の一部である」ということは、もう高濱虚子がすでに言っています。 金子 いや、虚子のように、自然随順なんていう言い方は誤解され易い。随順しているんじゃない。人間も自然、他の生き物と同じなんだよ。 稲畑 それは虚子が言った言葉じゃないですか。 金子 虚子は違う。私の場合は花も蝶もみんな生き物、同じ自然だと。 稲畑 同じことですよね。 金子 違う。虚子とは逆。虚子は律儀に自然随順、花鳥諷詠なんですよ。そういう律儀な考え方は駄目。生き物は全部、自然なんだ。つまり平等でなければいかん。私が言いたいのはそういうことなんです。今はまだ自然と人間と、二元的に考えたりしている癖があるよな。人間と自然は別物だと。 稲畑 人間も自然の一部であるということでしょ。虚子と同じですよ。花鳥諷詠というのは松尾芭蕉の「造化にしたがひて四時を友とす」「見るところ花にあらずということなし。思ふこと月にあらずといふことなし」ということを短く言ったのが、花鳥諷詠であると虚子が言っています。 金子 それは孫が言い直しているだけだ。じいさんはもっと律儀に、道徳的に、二元化していた。まあ、また、繰り返しになるからやめましょうよ。結局ね、稲畑氏と私がこんなことを言い争いするようになったっていうことが一つの収穫だと思う。命の世界が自然なんだから。私も稲畑氏もそこへの思いを深めている。そういう現象だと思う。去年(平成二十二年)はそういう年じゃなかったんですか。ホトトギスの人たちは写生が大事だと言っていますが、写生とはいのちに触れることですからね。私の場合は、もっと心の中で、アニミズムというものを理解しながら、生き物感覚なんて言ってきた。 稲畑 アニミズムは私が先に言ったの。 金子 そういうけちなことを言うんじゃない。あなたの本当に一番悪い癖。命ということに共通に、問題意識の中心が来ていると。それが大きな収穫だと私は見ていますよ。俳句はそういう役割をしているんだよ。最短定型というのはそこが強いんですよ。 二つ目は、京極杞陽と稲畑さんに係わる記事である。この但馬の殿様は、虚子の最大の弟子であり、かつ汀子をこよなく可愛がり、汀子さんも彼を父のように慕っていた。その部分を、拙著『新俳人探訪』の「京極杞陽―その作品と人」から引用しよう。
京極杞陽と汀子
紫陽花に汀子來りぬ嫣然と
この句の「汀子」は稲畑汀子のこと。杞陽には汀子の句が多い。
久しぶり花の汀子に逢ひもして
杞陽と家族同様な接触があった稻畑汀子側からの杞陽観を、昭和五十七年二月の「俳句とエッセイ」(杞陽への追悼文)から引いてみる。
「ホトトギス」主宰としての追悼文であるべきなのだが、娘のころから父親の様に尊敬し親しんできた杞陽さんなのでどうしても稲畑汀子個人の感慨が先に立ってしまう。
穏やかで繊細で、上質のユーモアに溢れ、いつも考え深い杞陽さんは一貫してあたかも父親の如く私が苦しんでいる時にそっと助言をして下さり遠くから精神的に私を支えて下さった方であった。考えてみると杞陽さんと一番親しく接することが出来たのは父年尾がまだ芦屋に住み私が嫁ぐ前の娘時代だった。当時我家で開かれた毎月の句会に杞陽さんは豊岡からはるばる出て来られ、その晩我家で一泊し翌日堺の放光庵の句会へ私と一緒に出席されるのが恒例のようになっており家族同様のおつきあいであった。父は短気な人であったから多感な娘時代の悩みを私はもっぱら杞陽さんに相談し、杞陽さんに言われることを私は素直に聞いた。
スエターの胸まだ小さし巨きくなれ
えぞにうに美女と野獣の旅つづく
これらの句を見るとき私は杞陽さんらしいなと感じるとともにいつも私の青春時代を思い出し当時の情景や会話のやりとりを如実に再現することが出来るのである。
昨年(昭和五十六年)の十一月八日私は旅先で杞陽さんの訃報を受け取った。
「僕が死ぬ時、汀ちゃんは来てくれるかしら」
「ええもちろん。どこにいてもとんで行くわよ。でもそんなことおっしゃったりしていやあね。年寄りの杞陽さんなんてかんがえられないわ」
そんな会話を笑ひながら交わしたことを私は思い出していた。私は二十歳前の娘で、杞
陽さんは今の私の年齢より若かった。
約束を果たすべく暁の道を豊岡へ車を駆る私は淋しくて仕方がなかった。
「汀子先生は必ず来られると思っていました。あんなに杞陽先生が可愛がっていられたのですもの。やっぱり来てくださったのですね」
品の良い老俳人にそう言って迎えられ対面した杞陽さんの美しくととのった死顔は素晴らしく充足していた。棺を囲む豊岡の俳人達と言葉を交わし、見事なまでに単純化された生活ぶりと、それと一枚ものである句作生活を見聞するうちに私は杞陽さんの晩年が淋しいものでなかったことを悟った。杞陽さんの但馬での晩年は決して不本意なものではなく自らが好しとして選び取られたものであった。杞陽さんは矢張り貴族であった。何よりもその精神に於て本当の貴族であった。
汀子さんは紀陽らと北海道へ一緒している。昭和50年のこと。こんな句がある。
夏草の芭蕉の旅も眼の下に
えぞにうに美女と野獣の旅つづく
芭蕉の苦難の旅「奥の細道」を飛行機でひと跨ぎしての北海道。汀子らとのこころ浮きたつ様子が分かる。二句目は前にも出したが、「えぞにゅう」は「獅子独活」ともいう1メートルほどの原野に白くレース状の花をつける夏の草である。
これも先に挙げたが、こんなメロメロな句もある。
久しぶり花の汀子に逢ひもして
稲畑汀子に逢う楽しみを、心そのままそっくり詠った。。
『稲畑汀子 俳句集成』を手にし、汀子さんの周辺の方々を通して、いろいろなことを思い出している。
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