令和二年十月二十一日に亡くなられた黛執さんの全句集が、黛まどかさんのご努力で発行された(令和四年同月同日、角川文化振興財団発行)。行年九十。水の秀句が多いことから、この日を「秋水忌」とした。序数句集八冊と、その後の作品などを加えてた2956句を入集。
特筆すべきは、解説を国文学者の中西進さんが書かれていることである。俳句の専門家の目よりは広い視点で書かれていて、私には大きな刺激となった。
特徴はまだある。四十頁におよぶ極めて詳細な年表が編まれていて、黛執研究家に取ってはこの上ない資料となった。関係者のご努力に頭が下がる。
さらなる特徴は、まどかさんのあとがきである。最晩年の執さんのことを細かく記述されておられる。(以下敬称を略させて戴きます)
解説から
まず中西進の解説を覗いてみよう。
中西は、黛執が五所平之助に遇って俳句を始めたことを重要視する。それは「俳句」以前の詩性を大事にした「ハイク」だったという。
思慕といふ野菊の風のごときもの 『春野』
それから「ハイク」の詩性を生かした「俳句」を指向し始めた。『朴ひらくころ』のころである。
ねんねこに拡りそめし夕茜 『朴ひらくころ』
五所のもとで育った詩性が俳諧の中に重みを増して行き、それを執は終生手放さなかった。平之助からもらった貴重な鍵である。その鍵によって執が拡げて見せた世界は、
寒柝のしづめてゆきし風の音 『畦の木』
夕焼より遠くへ老の眼かな 『煤柱』
まさに執は平凡な季語俳句を跳び越える跳躍力を示そうとしているではないか。その跳躍を誤またずに一層鮮やかにする特性を、執は平之助から学んだのではないか。
ここで私的な余談をひとつ。私は初学のころ五所平之助について評論を書いたことがある。しかし、俳句の専門家は、平之助は俳句評論に取り上げるべき類の俳人ではない、と明らかに区別していた。爾来、私は残念に思っていた。今回ここで、俳句専業ではないが文学に造詣深い中西の、五所を高く評価する論考に接し、私は大きな感動を戴いた。このことは多くの専業俳人に伝えたい。
第七句集『春の村』から執は覚悟を決めたように「透けきって」いる、と中西はいう。さらに執の俳句は俳句のジャンルを超えている。
いそいそと日暮が通る葛の花 『煤柱』
「葛」には多くの名句があり、歌も小説もある。「葛」の持っている意味性は深い。「葛」の広域性が執の句域に広がりを与えている。
僧帰るもつとも霞濃き山へ 『畦の木』
これを読んだ中西は『高野聖』(泉鏡花)の末尾を思い出して「アッ」と驚いた、という。黛執の句域が小説の世界まで広がっているのである。映画の最終カットの様でもある。
最後に中西は執の秀句五句を挙げる。
日は呆と天心にあり未草 『畦の木』
あますなく月光容れて菌山 『煤柱』
千手やや手持ち無沙汰に春の昼 『煤柱』
霾るや遠くしづかに牛の胴 『朴ひらくころ』
沖くらし暗しと猛るどんどの火 『春の村』
そして各句の優れた点を次のように解説している。
一句目は蕪村の「月天心貧しき……」を思い出すが、執句は太陽を呆とさせる朧化のなかでやや気怠るい昼下りの睡蓮を一体化し、(蕪村の「通りけり」ではなく)静止させて見せてくれた。二句目は、菌と月光のメルヘンチックな取り合わせ、三句目は、仏教国である日本人の微笑を誘う句。四句目は、「牛の胴」の大胆さ。五句目は、魂乞いの句だ、と、解説ではきわめて丁寧に述べている。
執俳句への心を込めた解説であった。
あとがきから
そして、まどかのあとがきから・・・。父の執は2020年の7月から10月にかけて寝たきりの状態だったが、句作は止めなかったようだ。医師は氏の「強靭な精神」を語っている。その時期の200ほどの句には矜持と美学が貫かれている。
黛執の俳歴や来し方については、やはり五所平之助の三原則や「自然との関りの中に人間存在のまことを探る」という理念、「湯河原の自然を守る会」のことが書かれているが、
身の中を日暮が通る西行忌 『春野』
の句が詠まれた背景を、艱苦の連続であった執の境涯と関連付けて書かれていたことが、特に、自然保護運動後の生きづらさや、借財返済に苦しんだこと、などを知らなかった私にとっては、驚きであった。「執は常に孤愁をまとっていた」との記述も意外ですらあった。
執が俳句表現の新しさを探究していた例としては、つぎの句などのオノマトペを挙げている。
ぐんぐんと山が濃くなる帰省かな 『野面積』
分校の春オルガンのふがふがと 『春の村』
諧謔句もあるが、俗に堕ちていない。そして執俳句の「平明さ」を
・普遍性の極地としての完璧さ
・言葉を選び抜いた叙景
・意味の排除を完成させて逆に意味の根源そのものに働きかける
と纏めている。
執の俳句を懐かしいというが、その景を実際に見たことがなくても、執俳句の懐かしさは根源的な懐かしさであり、絶え間なく続いてきた人の営みへの懐かしさであり、いのちへの慈愛なのだ……なかなかの雄弁さである。
煤梁のみしりと年の改まる
季語の力によって句が立ち上がってくるのも執俳句の特徴であろう。季語は執俳句にとってルールではなく、俳句そのものだと、まどかはいう。
薪割の薪よく跳んで梅日和
執は人を愛した。亡骸さえも敬愛の対象になった。
桃さくら婆が焼かれて戻りけり
屑金魚や祭の終った後の祭馬など、世の端で懸命に生きるものへの愛情が執の句となる。
祭馬とぼとぼ帰る夕日かな
令和二年九月下旬、末期の進行がんが見つかり、治療を断念し、湯河原に戻った。コロナで面会できない誌友のことを気にしながらの三週間であったそうだ。水の句を多く詠んだ執の忌日、十月二十一日を「秋水忌」とした。
凍蝶に凍てし寧らぎありぬべし
あとがきの最後は「肉体は消えても、魂は自然に還りいまこの瞬間も躍動している。凍蝶に見出した寧らぎにいま父があることを祈り、この全句集を父と、黛執の俳句を愛してくれる人たちに捧げたい」と結ばれている。
蛇足だが、私はその「執の俳句を愛する人たち」のひとりだと自負している。
栞から
小生も「栞」を書かせて戴いた栄誉から、各執筆者の論点を掻い摘んで纏めておこう。
今瀬剛一
執の寡黙な人柄を敬愛していた。現代俳句に欠けている「風土性」が執俳句に詠まれていることを指摘し、詠まれる「鶏」「馬」などの対象自身が、執俳句の中では「多くのものを語っている」という。執自身は何も言わないのだが……。
優れた俳人の三条件は、①感動に敏感であること、②寡黙をとおし、どうしても出てくる言葉だけを書くこと、③自分の認識した上での表現に限ること だと今瀬は考え、執はこれらを守っている、という。
井上弘美
執作品は第四句集『野面積』で深まりを見せた、と井上は書いている。作品は平明だが平板ではない。抑制された寡黙な表現によって、対象を柔らかく鮮明に描いて余韻を残す。余白を多く採ることで、味わいを深めている。
多くの佳句を挙げて、井上は「こうして心に残った作品を読むと、このような作品は、いわゆる写生の延長からは生まれないことがわかる。平明に徹し、写生に徹した歳月が、黛執という作家の詩魂を磨き上げたのだろう」、「平明であることを己に課すのは恐ろしいことだ。(中略)平明化は類句を生みやすいからだ。平明であり続けるために、どれ程の修練が積まれ、表現が試みられたことかと思う」と書いている。
栗林 浩
二囘のロングインタビューを抄録して、主にその俳人論に終始した。五所平之助の影響、地元の自然保護運動、飯田龍太への感謝の念、「春野」創刊の事情、そして、最晩年の
雉子鳴いて夕べ明るき仏みち
春の夜を上りつめたる春の月
春がきて日暮が好きになりにけり
を挙げて私感を書いた。特に二句目を「緩いと思う向きもあろうが、黛さんの最晩年の俗事を超越した心境なのだ」と書いた。
坂口昌弘
坂口が過去に黛執の俳句論を書いた中から思い出を纏めている。角川俳句賞を五回次席であったが、賞の選考が如何に個人的であるかを書いている。この時の選者の評をつぶさに調べ、高い評価であったのだが、それらの評では伝わらない何かが賞を決めているようだという。第一印象が重要で、あとはその理由を選者は後付けしているだけでは、と読める記述である。とまれ、このあと、俳人協会賞を貰われ、活躍したという事実は大きい。
佳句を沢山挙げて「黛執全句集は、氏の生前の魂が全て込められている。鎮魂の祈りと共に氏の詩魂に向き合いたい」と結んでいる。
ながさく清江
「春燈」のころからを振り返り、紺絣の似合う先生だった、と。夫永作火童との共通の思い出を書き、次の句などを挙げている。
春がきて日暮が好きになりにけり 『春がきて』
奥名春江
五所平之助の教えが執の美学となっている、第一句集からの高い完成度、もうひとりの師安住敦の死、「春野」創刊などを思い出し、次の句を含む執の名句を挙げている。
雨だれといふあかときの春の音 『春野』
作品から
次に作品に就いて振り返ってみよう。全句集の解説(中西進)、あとがき(黛まどか)、栞(今瀬剛一、井上弘美、栗林浩、坂口昌弘、ながさく清江、奥名春江)に現れる作品を整理してみたが、膨大な数となるので、ここでは複数の方が重なって挙げている執の名句に限って挙げておこう。
雨だれといふあかときの春のおと まどか、栗林、今瀬、坂口、奥名
大杉の真下を通る帰省かな まどか、ながさく、奥名
馬の眼のかくもしづかに草いきれ 今瀬、栗林
ぐんぐんと山が濃くなる帰省かな 井上、ながさく、まどか
海見えてきし遠足の乱れかな 井上、栗林
桃さくら婆が焼かれて戻りけり 井上、まどか
桐いつも遠いところに咲いてをり 井上、ながさく
分校の春オルガンのふがふがと 中西、まどか
春がきて日暮が好きになりにけり 井上、栗林、ながさく、奥名
有難う御座いました。
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