top of page
検索
ht-kurib

ヒューマニズムの俳人―友岡子郷

更新日:2022年11月11日


 友岡子郷さんが亡くなられた。2022年8月19日、行年88であられた。私は、子郷さんを明石に訪ねて、拙著『昭和・平成を詠んで』の客様のお一人としてお話を伺ったことがある。その後、蛇笏賞をお取りになり、東京の祝賀会で奥様ともどもお会いしたものでした。いま、その取材記録を読んで、懐かしんでいる。

 拙著の書き出し部分だけを、そのまま再掲致します。平成二十八年当時のものです。


再掲


 友岡子郷 昭和九年九月一日生まれ 平成二十八年末現在 八十一歳


 友岡子郷は昭和九年に神戸市灘区に生まれた。現在八十一歳。明石市にお住まいである。お会いする前に、健康が優れず歩行が自由ではないと聞いていたので心配していたが、大久保駅(明石市)にお一人で出迎えてくださった。

 氏の来し方を知るには、平成二十一年に詩歌文学館賞を受賞した際の次の言葉が好適だと思う。


 私は疎開児童の世代。山村の父の生家に疎開し、一年後に終戦、小学校五年生でした。二人の叔父が戦死、翌年母が病死。軍国少年たれが一変し、米国の民主主義に倣えと言われても、少年の私には全く理解不能でした。

 俳句をはじめたのは十代の終り、有季定型という堅固な詩型は懐疑に揺れる私の心を集中させ、何が不変の純真さなのかを問おうとする志を育みました。以後、この歳になるまで、私は俳句と共に生きてきたと思います。


 友岡子郷といえば、先ず挙げられよう。


  跳箱の突き手一瞬冬が来る     『日の径』

  倒・裂・破・崩・礫の街寒雀    『翌』


 この二句を含め多くの作品に触れるつもりであるが、最初に、子郷さんが俳句に出会うまでをお訊きした。


一、疎開のこと


――先生がお生まれになられた神戸は、後に、戦争で爆撃されたのでしたね。

友岡 私は昭和十六年に小学校に入りました。六歳でしたが、今まで尋常小学校だったのが国民小学校って名前が変わりましてね、ですから国民小学校の第一回生です。その年の十二月、太平洋戦争となりました。必ず朝礼があって、教育勅語を読まされた。「チンオモウニ……」という呪文のようなものでした。「ワガコウソコウソ」となると、後ろの子が手を伸ばして「こちょこちょ」ってやるんです(笑)。昭和十九年、四年生の夏、学童疎開が始まりました。これから戦うべき若者を死なすわけにいかない、ということで田舎に疎開させたんです。私の場合は、父の田舎が岡山の一番広島よりの山村でして……。

――すると、原爆は見られましたか?

友岡 ピカドンという怪しい爆弾が落とされた、とは聴きました。逃げて来た子もいました。その子とは遊びましたが、「ピカドンで病気になっているから遊ぶな」なんて言われました。風評被害ですね。その子も、何処からどう逃げてきたか詳しいことは話さなかったですね。

 八月十五日、村の小学校に集められました。負けたって言わなかった。戦争が済んだと言っていました。飛行機が飛んできても怖がらなくていいって。巷では負けたんだって、大人たちが言っていましたがね。それまでは「この先は戦争に行って」というのが若者の路線だったですから、一度にぷっつりと切られた感じで、訳もなく泪が出ました。

 それ以前、岡山も空襲を受けました。疎開先は岡山市から相当遠いのですが、空襲の様子が庭の桃畑から見えました。火の玉みたいな塊が花火のように落ちてくる。やがて下から炎が上ってくる。怖いというより怪しげに美しいとさえ思いました。翌朝外へ出てみると、障子の破片のようなものや灰が飛んできていて一面が散らかっていました。

 五年生が終るまで疎開していました。縁故疎開と集団疎開とがあって、集団の子らは隣町の幼稚園に寝泊りしていました。様子を見に連れて行ってもらったら、子供たちはちぎった新聞紙に赤っぽい粉のようなものを置いてそれを舐めていました。「なに舐めてんの」って訊いたら「歯磨き粉や」だって。この悲しい思い出が今でも残っています。私は縁故疎開だから良かったですがね……。もとの小学校に戻って、集団疎開がいかに酷かったか、聞かされました。お寺に泊っていた子らもいました。塀に五寸釘が打ってありまして、それを引き抜いて、列車の線路の上に置いて列車に踏ませ、平たく伸ばし、研いでナイフを作り、夜な夜な薩摩芋畠へ行って芋を掘って盗むのに使ったそうです。「大根も盗ったが、あれはいかん。食うとかえって腹が空いてすいてカナワン」と言っていました。薩摩芋が一番いいのですが、隠し場所が大変だったそうです。便所の天井裏に隠したそうですが、二日とはもたず、すぐ無くなるんだそうです。芋でも馬鈴薯はイカンらしいですよ。ゲップが出て困るんですって(笑)。縁故疎開の私は毎日南瓜でしたが、なんとか食べさせてもらえました。

――野坂昭如の『火垂るの墓』は悲しい物語でしたが、あれは縁故疎開ですよね。

友岡 あれは叔母さんの家ですね。何回も読みました。舞台は神戸市東灘区で、西宮の方へ逃げて行ったり……妹の節子を栄養失調で死なせてしまったり、少年清太が亡くなるのは三ノ宮駅の構内でした。


――それから先生は岡山から神戸に戻られてすぐお母さんを亡くされています。


再掲終り




 該著『昭和平成を詠んで』には、金子兜太、有馬明人、黛執ら多くの故人となられた方がたに関する取材記事が入っております。ご興味のおありの方は、書肆アルス info@shoshi-ars.com または 03-6659-8852 へどうぞ。





閲覧数:51回0件のコメント

Comments

Couldn’t Load Comments
It looks like there was a technical problem. Try reconnecting or refreshing the page.
記事: Blog2 Post
bottom of page