中西さんは、現在「円座」(武藤紀子主宰)「秋草」(山口昭男主宰)「麒麟」(西村麒麟主宰)に所属し、俳句に熱意を燃やしながら、研鑽に務めておられるようだ。その第一句集で、ふらんす堂、2023年12月25日発行。序文は山口主宰。跋は武藤主宰・西村主宰が書かれている。
句集名『木賊抄』から、ご年配の方の句集かと思った。しかし、気鋭の若手俳人であり、村上鬼城新人賞や鈴木六林男賞を受賞している。
自選句と思われる10句は次の通り。
短日やじつと見つめる垣の猫
人肌の触れて離るる虫の闇
伸びてゐる木賊と折れてゐる木賊
初湯出て壮年の身になりにけり
糊あまくにほへる障子洗ひかな
神の旅耳にあかるき風過ぎて
掌に貼りついてゐる種を蒔く
風吹いて肩の繪日傘まはりけり
蘭鋳の鼻にあぶくのついてをり
うすずみの萬といふ文字秋の霜
小生の琴線にふれた句は次の通りであった。
019 おでん屋の小さくなつて仕込みをり
021 柏餅カナダの滝の大きくて
027 心太赤子の首に皺多し
031 雪吊や一本道をゆづりあふ
037 掛けてあるだけの麦藁帽子かな
042 梨売りの梨並べつつ話しをり
047 ボクシングジムのこゑする枯木立
052 初湯出て壮年の身になりにけり(*)
054 雪沓の誰か揃へてくれてあり
064 かたつむり肉のほとんど出で歩く
065 かがみたるまま歩みをる田草取
068 路角に涼しく貌をこする猫
071 背泳ぎを終へてしばらく浮いてをり
074 あさがほの萎びて色の濃くなりぬ
076 一つ飛びたくさんの鯔飛び出づる
077 挿し置きて表の決まる案山子かな
079 糊あまくにほへる障子洗ひかな(*)
082 山茶花の家の外より返事来し
093 ラガーらの握り拳のまま入場
095 山焼の髪のにほひとなつてをり
105 背中まであをき赤子や花あやめ
108 打水を気を遣ひつつしてゐたり
116 この函の本出しにくし衣被
117 秋の蚊の志なく飛びゆけり
一読して年齢に似合わず手慣れた作品が多い。とても31歳とは思えない。先日読んだ浅川芳直さんの句集『夜景の奥』もそうだったが、若い方に熟達の俳人がおられることに驚きを覚えている。
よく読むと、この句集『木賊抄』には一物句が多い。もちろん〈021 柏餅カナダの滝の大きくて〉〈027 心太赤子の首に皺多し〉〈116 この函の本出しにくし衣被〉のように、取り合わせの句もあるにはあるが、多くは、あるモノやコトについて丁寧に詠んだ句が多い。しかも、ある時にたまたま見かけたトリビアルなコトやモノを詠んでいるのである。一回性の場面といっても良い。自然の大景や、社会に対する悲憤慷慨や、自身の境涯などは、中西俳句のテーマではないようだ。だから読んでいて、とても吹っ切れた、悟ったような気分が湧いてくる。とまれ、好きな句をいくつか挙げておこう。
037 掛けてあるだけの麦藁帽子かな
麦藁帽子が壁に掛けてあるだけ。こんなことが俳句になるのだ。ふっと肩すかしを喰った気分。多くの俳句作家は、一句で何か凄いことを言って、あっと言わせてやろう、と画策する。中西句はそんなそぶりを決して見せない。
042 梨売りの梨並べつつ話しをり
これも同じ調子である。ただ「梨」という語の繰り返しに「芸」を感じる。うまい句である。
065 かがみたるまま歩みをる田草取
見たままの一物句。よく見て書いたと感心する。読んでいる私も腰が痛くなってくる感じがして来るから不思議だ。
074 あさがほの萎びて色の濃くなりぬ
これもトリビュアルな景だが、言われればその通りだ、と感心しない訳にはいかない。あまり読まれない「萎びた」「朝顔」が立派な一句になるのだ。中西俳句を詠んでいると、俳句の素材は何処にでも転がっている、とつくづく感じさせてくれる。
093 ラガーらの握り拳のまま入場
高揚した表情の選手。気が付いたら、みな「握り拳」をしながらの入場である。握り拳によく気が付いた。
105 背中まであをき赤子や花あやめ
取り合わせの句。この句にも「芸」が見られる。一句を流れる「あ」の音である。蒙古斑はむかしよく詠まれた。だが蒙古斑を出さずに、このように詠まれたのは珍しいのでなかろうか。
116 この函の本出しにくし衣被
これも取り合わせの句であった。上五中七に対して「衣被」を持ってきた。これがベストかどうかは分からないが、適当に離れていて読者の想像心を書きたててくれる。
実に楽しく読める句集でした。中西俳句の末恐ろしさを感じました。
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