五十嵐さんは「藍生」と「雪華」の同人。帯には急逝された「藍生」黒田杏子主宰の序句
青嵐五十嵐秀彦屹立
が掲げられている。発行は、令和五年六月一日、山口亜希子氏の書肆アルス(装幀は間村俊一、挿画は田島ハルの各氏)が発行。
氏は北海道で大活躍の俳人であられ、雪華俳句賞、藍生大賞を受賞している。俳句集団「itak」の代表役も務めておられる。北海道の帯広市生まれで、奇しくも小生とおなじ町である。現在は札幌市に住まわれておられるが、小生も札幌は永かったので、北国の自然環境はよく理解している積りである。そんな懐かしさをもって、該句集を精読させて戴いた。
自選十五句は次の通り。
冬隣キトクといふ字書けぬまま
五体貧しく雪の暗渠となりぬ
血を舐める夏を味蕾を忘れない
外套の埃払へりあこがれも
女来て切れよき春の啖呵かな
四つに割るメロンに星の匂ひして
春泥や越境の靴洗ふとき
炎天や母さん死はまだ怖いですか
冷蔵庫死者の家より運び出す
漂着の宝船敷く明日あれかし
存分に埋めよ雪野の磔刑図
闇を抱き火を抱き苧殻こぼれけり
日永人鶏を殺してきたばかり
犬が尾を振る誰もゐない花野に
蜂よ動詞が使ひ尽されてゐる
小生にとってこの句集『暗渠の雪』は、正直、結構手ごわかった。多くが現代詩的な難解性に富んでいるからである。中から、意味がよくわかった上で佳句と思う句、不消化ながら何かを感じさせてくれる魅力的な句の二種類に絞って、戴かせてもらった。
通常、分からない作品に対しては、「黙して語らず」で済ますべきであろうが、小生にとって、どんな句が分からなかったか、をも書いておこう。その方が、分かった句、何かを感じた句が、浮き顕ってくるからである。読解力の寡なさを暴露するようで恥ずかしいし、作者の五十嵐さんに申し訳ない気がするのだが、読者の責任でもあると思うので、お許しください。まず、小生にとって、感受が及ばなかった句の代表として次の二句を上げます。
160 月光や雌雄不明の指ほどく
161 存在のはずれで嗤ふ鶏頭花
161は分かりそうな気がするが、160はより難解であった。
さて、小生が戴いた句は次の通り、かなりの多きに達した。(*)印は自選句と重なった。
012 雪原に真つ赤な斧があり眠る
023 日記買ふ夢の続きのために買ふ
034 揺すりてはひとりの時の金魚玉
035 暗室に父の真夏のうごめける
038 外套を世俗の顔ではおりけり
043 寒燈や生きる途中の転轍機
044 けあらしや父なきことを知らぬ母
046 椅子ひとつあいて櫻のただなかに
047 海見ては海を識らざる蝶の群
053 晩秋や不空の道に母を置き
054 死ぬ稽古重ねて白き息を吐く
063 屋根毎に冬の崩れてゆきにけり
067 読み終へて蟬の時間となりにけり
075 肺尖を削る吹雪となりにけり
077 おうと言ふ男しまきの中を来る
082 億千の死衣のほつれや牡丹雪
091 不都合な浴衣の女ばかり来る
098 三島忌やいつも映画は途中から
110 四つに割るメロンに星の匂ひして(*)
127 なにひとつ為さぬひとひを春と呼ぶ
129 櫻散る両眼洗ひしのちのこと
152 櫻までいくつ夜の河渡りしか
154 ひと気なき街で水買ふ薄暑かな
190 傘を選る指美しき夕立かな
192 虫籠を持つひとりづつ消えてゆく
200 犬が尾を振る誰もゐない花野に(*)
203 双六やそのまま行けと言はれし日
206 夕東風を歩く誤植の貌をして
211 牡丹の群れそこなつてゐたりけり
219 声帯は父性の記憶冬初め
特に印象に残った作品を挙げておこう。特記すべきは、小生の感じ方が特殊であるかもしれないが、ここに取り上げた作品には、先人の香りがふくよかに漂っているということである。それは、佳句というものの一つの条件であるかもしれない。
012 雪原に真つ赤な斧があり眠る
「斧」というと佐藤鬼房の〈切株があり愚直の斧があり〉を思い出すが、その代表句に劣らない秀句だと思う。鬼房句よりも色彩感覚が見事。「真つ赤」は、まさか「血」ではあるまい。斧の柄なのだろうか、それとも錆びているのだろうか。「眠る」の主人公は誰なのだろうか。「斧」なのだろうか、それとも、「雪原」だろうか、いや人間一般か、作者なのだろうか? 平易な句に見えて、そう単純ではない。
035 暗室に父の真夏のうごめける
この句は、私に寺山修司を思い出させてくれた。多くの俳人に「父」の名句があるが、彼にも傑作がある。〈父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し〉。そして「暗室」からは〈暗室より水の音する母の情事〉の句があり、父だけでなく、修司の「母」をも思い出させる。
五十嵐氏は現代俳句協会の評論賞を貰っている。そのテーマは寺山修司だったと記憶している。だから、小生は余計に、この句から修司の匂いを感じ取ったのかも知れない。もちろん、掲句は独立した五十嵐作品であり、しかも、小生イチオシの句にしたい程の作品である。
067 読み終へて蟬の時間となりにけり
緑陰であろうか。読書を終えて本を置いたら、急に蝉の鳴き声に気が付いた。どちらかというと伝統俳句的な宜しさがある。現代詩的な作品の中に、このような句を見出すと、小生の好みもあり、安心するのである。別の見方をすれば、五十嵐氏でなくとも、経験豊かな俳人なら詠むであろう範囲の句であるかも知れない。だが、好きな句である。
192 虫籠を持つひとりづつ消えてゆく
この句はミステリアスである。勝手なことをいえば、阿部完市を感じた。〈ローソクもつてみんなはれてゆきむほん〉。もちろん全く別の作品である。だが、この句は完市の宜しさのエッセンスを受け継いでいるようにも思えるのである。
203 双六やそのまま行けと言はれし日
子どもの頃の双六遊びの記憶であろう。それが、後年になって、人生の行き先を考えあぐねている自分に重ねて詠まれている。この句は草田男の〈真直ぐ往けと白痴が指しぬ秋の道〉を思い出させる。それは形の上のことだけであって、草田男の一回性の句よりも、五十嵐句の方が、普遍性があろう。
読み終えて、つくづく五十嵐俳句の幅の広さを感じさせて戴いた。読み切れなかった数多くの現代詩的な作品を、暫くしてから、また読み直してみたいものだ。その頃には、小生の理解力ももっと広くなっていることを期待して……。
有難う御座いました。
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