井上弘美句集『夜須礼』(やすらい)
俳壇でご活躍の井上さんの第四句集(2021年4月26日、角川文化振興財団発行)。
井上さんは、「汀」主宰。著作に『季語になった京都千年の歳事』などがあり、『読む力』で俳人協会評論賞受賞を貰っておられる。
句集名『夜須礼』(やすらい)は、京都の今宮神社の祭礼であるそうだ。京都に詳しい方に相応しい句集名である。
自選15句は次の通り。
野遊びの靴脱ぐかへらざるごとく
荒縄をくぐる荒縄鉾組めり
流氷原を行くたましひの青むまで
蝮酒ぐらりと闇が傾ぎけり
犬岩の耳滅びゆく冬銀河
すこやかに大地濡れゆく杏の実
ひるがへるとき金色の鰭涼し
金星の神在月の高さかな
蕪村忌の舟屋は雪をいただけり
狐火を見にゆく足袋をあたらしく
湖一壺冬満月のあかるさに
幾重にも折山のあり懸想文
空遠くなる熊啄木鳥(くまげら)のドラミング
水瓶(すいびやう)に花鳥尽くせる霜夜かな
楮踏むとは産土の水を踏む
小生の気に入りの句は次の通り。(*)印は自選と重なった。
007 あをあをと海の暮れゆく雛の膳
007 野遊びの靴脱ぐかへらざるごとく(*)
008 鳥雲に入るレコードに虚子の声
010 まつくらな海に手を差す踊かな
014 踏青の水ひかり出すところまで
030 鞍置いて端午の馬のにほふなり
031 短夜の青こみあぐる憤怒仏
035 叡山を正客とせる水の秋
040 百年の杉伐つて星冴ゆるなり
043 門前に婆ひとり座す年の市
052 山籟に蹄涼しき一騎かな
059 膝の子が鈴(りん)打つ地蔵祭なる
063 大綿にふつと過ぎれる火のにほひ
067 まだ消えぬ焚火がひとつ夜の底
076 花させば弔ふごとし夏帽子
090 海猫に鳴かれて寒しオホーツク
095 金泥の眼もて蜻蛉生まれけり
102 秋袷鑽火飛ばしてくれにけり
105 たれかれの声の籠れる龍の玉
132 燭ひとつ足せばゆらぎぬ春の闇
135 螢の夜鼻緒につよく足を入れ
139 伏せておく母の手鏡虫の闇
178 解くほどに濡れ色となる粽かな
180 綿菅の絹のひかりをほぐしたる
184 室町に伯父をりしころ祭鱧
007、007,008は、句集を繙いてすぐの三句。この調子で行くと全句を選んでしまいそうになるのを堪えて、次頁からはハードルを上げて選んでいった。
007 あをあをと海の暮れゆく雛の膳
007 野遊びの靴脱ぐかへらざるごとく(*)
008 鳥雲に入るレコードに虚子の声
句集の第一句「あをあをと」は、実に雄大で端正な句。しかも「雛」というひとが出て来る季語が良かった。不思議にこの三句とも「ひと」が出て来る。
冒頭二句目。「野遊びの」句は、「靴」を脱ぎ散らかして、草はらに飛び出していった子供たちの姿が見えるよう。「かへらざるごとく」が、読者をやや不安な気分にさせるが、そのせいで余韻が広がった。それとも、主人公は子供たちではなく、ご自身なのであろうか。そうすると、かなり重たい句。複数の読み方を許す句柄は、実は小生には好みの句であります。ただし、どちらに読んでも詩情が湧く場合に限りますが・・・。
冒頭三句目。「虚子の声」は、私の場合、多分、港の見える丘公園にある「神奈川近代文学館」での催し物だったと思うが、虚子の肉声録音を聴いたことがあった。思い当ることがあるとつい嬉しくなって、戴いてしまう。
031 短夜の青こみあぐる憤怒仏
自信はないが、吉野の金峯山寺蔵王堂の、あの青い憤怒像ではなかろうか。一度見たら、脳裏に焼き付いてしまう仏像である。
090 海猫に鳴かれて寒しオホーツク
北海道出身の小生にはよく分かる。原風景ともいえる景です。
105 たれかれの声の籠れる龍の玉
「龍の玉」というと、小生は村越化石の〈生い立ちは誰も健やか龍の玉〉を思いだす。この句にもどこか通底するものがありそう。
135 螢の夜鼻緒につよく足を入れ
「つよく足を入れ」に作者の意思を感じた。何かを決意したかの如く・・・。当然、和服姿。艶やかな季語「螢の夜」が微妙な味を与えてくれている。
久しぶりに、感銘を戴いた句集でした。
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