
井出野氏は「知音」(行方克巳・西村和子共同代表)の同人で、二〇一五年には俳人協会新人賞を受けている実力者である。『孤島』は『驢馬つれて』につぐ第二句集で、二〇二三年五月一日、朔出版発行。
帯には〈虫の夜の孤島めきたる机かな〉と、西村和子代表の「宇宙的空想から共に生きる者たちへの共感まで幅広い世界へ読み手をいざなう。鋭敏な五感で生活者の実感をこまやかに詠じた作品は寡黙だが季語が多くを語っている」との言葉がある。
自選句は次の十二句。
つばめ来る東京いまだ普請中
春燈や微恙の床に唐詩選
花の影とどめて水のとどまらず
くるぶしにかひなに茅花流しかな
祭鱧逢ふときいつも雨もよひ
草笛の鳴るも鳴らぬも捨てらるる
太陽系第三惑星星祭
ルビを振ることに始まる夜学かな
また来てと母に言はれて秋の暮
小春日の龍太の留守を訪ひにけり
あのころは実学蔑し冬木立
湯豆腐や父逝き母逝き戦後逝き
小生の感銘句は実に多かった。近来稀な多さである。よほど好みが近いのだろう。ただし、自選句と余り重ならなかったのが、気になる。
008 朧夜やことば知らざる頃の夢
009 巡回の靴音止まる大試験
017 旅人に遊女の越の虫時雨
030 坂道は手を振るところ春夕焼
031 菜の花や灯りそめたる沖の船
031 幕間の一盞に酔ひ春の宵
032 さへづりのつひに姿を見せぬまま
033 桜散る水面は夜空より暗く
035 風鈴のまだよそゆきの音なりけり
036 草笛の鳴るも鳴らぬも捨てらるる(*)
038 留守番といふも昼寝をしたるのみ
040 いづこからともなく灯り川床料理
044 富士見中のジャージ着せられて案山子
047 数へ日や母より埒もなき電話
054 母訪うて桜餅食ふだけのこと
058 銭湯の故障のままの扇風機
059 ビニールプール干して無認可保育園
065 ちちははは二階使はず虫時雨
067 じつとしてをれば寄りくる雪螢
073 初富士や橋を渡れば旅ごころ
073 入魂の一句採られず初句会
077 いもうともいつかふくよか桃の花
082 母の気の済むまで墓を洗ひけり
087 食ひながらゆけと林檎を投げらるる
091 父もまた父厭ひけむ根深汁
095 教へ子の幸不幸透く賀状かな
095 よべの雪舫ひ綱にも積りをり
097 春寒し人の誤字にはすぐ気づき
097 春雪やふたりの記憶くひちがふ
102 ややありてくちびる離し祭笛
107 義経に鎌倉遠し葛の花
108 諍ひならむ夜学子のタガログ語
110 父親はどこか投げやり七五三
118 甘味屋に男がひとり風生忌
119 花ミモザ雨をふふみてなほ濡れず
122 空飛べぬ鳥にも翼五月来る
126 陸の灯の遠ざかりゆくビールかな
130 死にきれぬものに蟻はや群がりぬ
131 女湯の声聞こえくる木槿かな
148 白椿母に告げざる訃のひとつ
151 コメディアン逝きて花冷ことのほか
157 昼顔や保健室では多弁とか
162 虫の夜の孤島めきたる机かな
164 曖昧な色をゆるさず冬薔薇
176 介護にも忙中の閑桜草
179 拭へども拭へども汗喪主なれば
180 立葵来るたび空家めきにけり
幾つかを鑑賞してみたい。
031 菜の花や灯りそめたる沖の船
端正な叙景句。手前に菜の花の野があって、やや暮れかかってきた。沖では大型旅客船の灯がともり始めた。遠いものと近いものの明るさの微妙な差異が見えてくる。
035 風鈴のまだよそゆきの音なりけり
180 立葵来るたび空家めきにけり
風鈴市から買って来たばかりなのであろう。吊るして音を聴いたが、その音はまだ何となく部屋に馴染まない。やがて馴染むのであろうが、新しいものに対する感覚的な感受が微妙に描かれている。
「空き家めきにけり」の句も感覚的な句。たまたま「立葵」は元気に咲いているのだが、それだけに、建物の方はこの間来た時よりも何となく古びた感じ。分かるような気がする。
036 草笛の鳴るも鳴らぬも捨てらるる(*)
065 ちちははは二階使はず虫時雨
こう言われるとその通り。リフレインでリズムも決まった。どちらにしても「草笛」は捨てられるのだという宿命を、たんたんと描いた。気づきがいい。
「ちちはは」の句も、その通りだなあと思わせてくれる。
038 留守番といふも昼寝をしたるのみ
054 母訪うて桜餅食ふだけのこと
軽い句。しかもこういうことってあるよね、と同意してしまう。この種の作品がこの句集『孤島』に多い。『孤島』というと何か重く淋しい感じがあるが、そうではない。たんたんと詠まれた句が多い。
「母訪うて」の句にしても同じ。たんたんと書いていながら、情感が滲み出てくる。
044 富士見中のジャージ着せられて案山子
「富士見中学」のマークが入ったジャージ。リアリティがある。
095 教へ子の幸不幸透く賀状かな
108 諍ひならむ夜学子のタガログ語
157 昼顔や保健室では多弁とか
これらの句は、自選句の〈ルビを振ることに始まる夜学かな〉を含めて、著者の職場経験から生まれたのであろうか。「幸不幸透く」は切ない。
102 ややありてくちびる離し祭笛
よく見て写生した感じ。
感銘句の多い句集にひさびさ巡り合った。多謝です。
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