仁平勝さんの第五句集(序数句集としては第四)で、ふらんす堂、二〇二三年三月三一日発行。句集名は『デルボーの人』とあり、
083 間をあけて立つデルボーの人涼し
に因んでいる。
ポール・デルボーはベルギーの画家でシュールリアリズム派と言われている。その作品が表紙に使われていて、八人の男女が間隔をあけて立っている。うち三人が全裸。なるほどシュールである。全二六〇句。
小生が気に入った句は次の通り。
011 夕方の匂ひたとへば豆の飯
015 すぐ死んでしまふ夜店の金魚かな
015 蠅打つは蚊を打つよりも無惨なり
017 噴水を止めて園丁帰りけり
022 朝涼や夕べとちがふ下駄の音
028 世の中を逆さに映し水澄めり
033 遅番の娘(こ)が宵闇を連れてくる
039 昭和史の中に秋刀魚を焼く煙
056 風花やかつて日本に表裏
064 梅匂ふ「猛犬」のゐる屋敷より
065 こころもち向き合ふやうに雛飾る
076 町役場から蜂の巣を取りに来る
083 間をあけて立つデルボーの人涼し
093 老人の日の少なめのご飯かな
102 軒先を汚して燕帰りけり
110 マネキンの頭つるつる寒波来る
112 忘れものしてマフラーの柄をいふ
116 初詣まづは小銭をつくりけり
120 探梅といふ徘徊をして来たり
127 野に遊ぶ人を座つて見てゐたり
148 昼寝から覚めてしばらく不信感
152 きれいねと言はれ線香花火果つ
一読して面白い句が多い。「あるある、この感じ」「うまく言ったなあ、あの景を」「軽い皮肉っぽさが良い」「ただごとだが妙に味がある」などと、一句一句に途切れることなく、感心させられる。深刻な句はない。
特に好きだった句を挙げてみよう。
017 噴水を止めて園丁帰りけり
127 野に遊ぶ人を座つて見てゐたり
こんなことが句になるのだ。ただごと俳句である。ただし、小生は「ただごと俳句」という言い方を、いつも誉め言葉として使っている。何とも言えない味があるのだ。
花園でも遊園地でも良い。閉館の時間になると、園丁は照明を消し、戸締りをし、噴水は止める。あたり前の日常作業なのだ。句に重い「意味」を籠めない。そのかわり、ふんわりとした「空気」を思わせてくれる。それだけで面白い。
二句目も然りである。ただしこちらの句は、作者はあまり歩きたくない人で、ベンチに座って人物観察を楽しむことを常とする人を思わせるので、少しの意味はある。
とまれ、一般の句集に多い、深刻な意味や、激しい感情を伝えようとする作品は、この句集には、ほとんどない。個人的に、俳句はそれがいいのだ、と思っている私には、実に読みやすい句集である。
064 梅匂ふ「猛犬」のゐる屋敷より
「猛犬」の鍵括弧がポイントである。この屋敷にほんとうに猛犬がいるのかどうかを疑っているのである。いても居なくてもよい。ただ、そういう表示札が門に貼られているのである。この呼吸、実に面白い。
065 こころもち向き合ふやうに雛飾る
これは、実は、ほかの句と持ち味が違う。「私は本来やさしい人間で、思いやりがあるんです」と詠っている。他の句は(少なくとも私が戴いた句は)あまり意味がないか、アイロニーがあるか、達観の句が多い。だからこそ、この句が目立ったのかもしれない。しかし、裏があるのかもしれない。用心しながら、二度三度読み返す。
102 軒先を汚して燕帰りけり
「飛ぶ鳥跡を濁さず」の逆である。しかもいい得ている。決して重い句ではなく、かるいアイロニーが面白い。
112 忘れものしてマフラーの柄をいふ
これもよく「あるある」の句。私にも同じ経験がある。柄と色と素材、それに忘れた場所と時間を申告して、忘れ物係りに探してもらう。何本なくしたことか!
最初から最後まで、実に楽しい句集でした。有難う御座いました。
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