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俳誌「りんどう」650号記念号






 「りんどう」(藤岡筑邨主宰、松本市)の650号(2021年11月号)を記念する号が出版された。600頁におよぶ大作である。小生は、藤岡主宰が98歳になられることを存じ上げていなかったので、いたく感動を覚えた。そしてその熱意に敬服している。 

 表紙には、杉田久女の流麗な短冊が載っている。

  うららかや齋(いつ)き祀(まつ)れる玉の帯    杉田久女

  花衣ぬぐや纏はるひも色ゝ

 久女の父が松本出身であった縁で「りんどう」が彼女の苦難の時代を応援していたことを知った。娘の石昌子が、久女のいわれのない誤解を解くのに苦労されたことは承知している。今号には久女の孫にあたる石太郎氏が寄稿していて、参考となった。その概要を記載する。


 太郎氏は昭和17年に鎌倉に生まれた。そのころ祖母の久女は小倉に居たが、母昌子や孫である自分に会うため鎌倉まで来てくれたそうだ。太郎氏の父石一郎は中国戦線に出兵することになり、昌子は太郎氏を連れて実家のあった豊田市に疎開した。父一郎が復員し、のち昭和30年頃、東京に出ている。その頃は久女に対する誤解が酷く、昌子は久女句集を発行するなど、奮闘していた。このような折に、昌子と「りんどう」とのお付き合いが出来たようだ。その縁で、久女の句碑を城山公園の見晴らしの良いところに立てて戴いた、とある。小倉市の句碑については、難産であったようだが、今では「杉田久女・橋本多佳子の会」があって、活発な活動がなされている。

 久女の遺骨は実家赤堀家の墓に分骨されており、夫の宇内が虚子に「久女の墓」と揮毫してもらったのだといわれている。

 太郎氏ご自身も俳句にどっぷりつかり、九州の「青嶺」(岸原清行主宰)の同人でもある。

 太郎氏は、「りんどう」の厚意により、祖母久女の俳句への探求心、母昌子の情熱が、再び光を放っていることに、とても感銘している、とある。母昌子が亡くなるときに「ようやく普通の人が久女を理解してくれるようになった」と安堵の気持ちを示したことが、忘れられない、ともある。


 この号には、著名俳人の祝句と筑邨代表の200句およびメンバーの40句ずつが500頁におよぶ貴重なアンソロジーとして掲載されている。

 また湯口昌彦氏(井上弘美主宰の「汀」の元編集長)の論文も掲載されていて、「結社は閉鎖的であるべし」と述べている。その主張は、結社はそれにふさわしい信念・矜持を持つべきだということに通じ、強い信念を感じた。此処にその一部を掲載する。


 引用 湯口昌彦著 「りんどう」650号より

《座》は閉鎖的であるべし

《座の文芸》としての俳句は、結社という共同体を結成している場合が多い。(略)本来、結社は閉鎖的であるべきである。よく〈開かれた結社〉を自認している場合があるが、結社自身が気付いていようがいまいが、結社は閉鎖的である。例えば、俳句は文語に限る、としている結社は、それだけで充分に閉鎖的である。口語でも文語でもご自由に、としている結社もあろうが、その結社の《座》、すなわち句会に出席したとすると、間違いなく戸惑う。同席者の説明なしに句会の進行についていくことは不可能である。

 このように結社は本来的に閉鎖的なものだが、閉鎖的であることが結社にとって重要なのである。

 外山滋比古は、著書『俳句的』の中で、


俗をすて雅を求める。文語の中から雅語の体系をつくり上げる。これは短詩型文学に共通する点で、俳句を作るのは、その雅語のシステムをまがりなりにもわがものにすることにほかならない。もちろん、普遍的雅語などというものが容易に習得できるわけがない。めいめいの属するグループの方言ともいうべき雅語に習熟することから始まる。


と書いているが、まさに結社には結社ごとの方言がある。例えば、いまやコンビニと言い、スマホと言って知らぬ人はいないわけだが、結社によっては、この語彙を作句に使うことが許されないなど、結社ごとに不文律的に「決まり」があり、結社に身を置いて、暫く経たなければ、その「決まり」を習得できない。一方、永く結社に身を置いている人達にとっては、結社の方言や「決まり」は絶対であり、標準であり、何ら違和感を持たぬものであり、ついには結社が閉鎖的であることも忘れ、結社の「決まり」こそスタンダードであると思い込むようになるのである。

 このように結社ごとに、「決まり」を持ち、この「決まり」が、随時かつ逐次追加され変更され整備されていくことにより、結社は結社としての「《座》の個性」を確立できるのである。結社に参加する者は、この「決まり」を会得しつつ、結社の中において「《座》の中の個の個性」を磨き発揮するのである。すなわち、あるべき結社とは、結社独自の「決まり」を常に進化させ、《座》の個性を常に新しくしていくことにより、《「座》の個性」を確立し、かつ、徐々に社会の評価を高め、この《座》から新たな《座》を生みだし増殖していくのである。

 この事は、芭蕉の没後、門人たちの許に、多くの人々が集まったことに証左されるが、これこそ蕉門の「決まり」が「《座》の個性」として高く評価されたからに他ならない。 

 芭蕉は歌仙ばかりでなく、《座》も「一歩もあとにかへる心なし。ただ先にゆく心なればなり」としたのである。

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