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内田茂著『蕪村の百句』

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更新日:2023年8月17日


   

 内田氏が季刊俳誌「青垣」(代表は大島雄作)に二〇一二年から十一年間に亘って連載したものに補訂を加えたもの。蕪村の全約三千句から著名な句を含め、一〇五句を解説している。表紙には国宝の蕪村画「夜色楼台図(部分)」が使われている。ふらんす堂、二〇二三年八月一日発行。 

 該著の紹介文を書くために、次の三つの観点から、抄録することを心掛けた。

・蕪村を高く評価したのは子規であったが、どの句を芭蕉よりも良いと評価したのか?

・肝心の蕪村は芭蕉をどう思っていたのか?

・江戸時代の大家、芭蕉・一茶とくらべて、蕪村の持ち味はどこにあるのか?

 なお掲載句の上の番号は、該著のそれを踏襲した。


08 春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな  (「のたり」の部分は繰り返し記号)

 小学校の教科書にも載っている超有名な句。擬態語「のたりのたり」の語感の宜しさが、この句を口遊ませる。詠まれた場所は須磨の浦となっているが、宮津の方が合っていると、著者内田は考えているようだ。

11 古井戸や蚊に飛ぶ魚の音くらし

 むかし井戸には有害物質や毒物を食べるというので、鯉や鮒などをいれて飼っていたようだ。その魚が水面近く飛ぶ蚊を捕えようと、飛びつく音を聞いて詠んだ。虚子は「日暮方の暗い時に魚の飛ぶ音がするという長い意味を五字の中に収めてしまった所が大胆な技量」と指摘し、子規も同意している。

14 鳥羽(とば)殿(どの)へ五六騎いそぐ野分哉

 鳥羽殿は白河上皇が京都伏見に造営した離宮。早馬が上皇に急を告げている、というドラマ仕立て。古語や故事を踏まえた俳句は蕪村の独断場。

15 月天心貧しき町を通りけり

 子規は「簡短なる語を用うれば叙事形容を精細に為し得べき利あり」とし、「月天心」をその「簡短なる語」の例に挙げている。月が空の真ん中に懸かって、明るく清涼な光が注ぐ中、貧しい佇まいの町を通りすぎたことよなあ、と感嘆している。蕪村の名句の一つ。

16 四五人に月落ちかゝるおどり哉

 内田氏の鑑賞の深さに感銘した一句。「おどり」から「盆踊り」を想起し、だとすると「月」は「満月」である、と読む。太陰暦の時代、盆は十五日に近く、満月なのだ。昔の句を読むとき、注意すべき点の一つであろう、と教えられた。

20 𠘨巾(いかのぼり)きのふの空の有り所

 大空に凧が上っている。昨日も同じところに上っていたような気がする。いや、昔からそこに上っていたような、時間的空間的に不思議な既視感を読者に与える。

26 牡丹散りて打かさなりぬ二三片

 「二三片」は俳句全体を漢語調に強調する蕪村得意の手法だと、内田はとらえている。牡丹だけに焦点を絞った見事な写生句。

30 秋風におくれて吹くや秋の風

 やや理屈っぽい句だ。「秋風」は夏の終わりに吹く少し秋めいた風。「秋の風」は秋になっての本格的な秋の風なのだ。因みに、「春雨」は三月の雨、「春の雨」は一,二月の雨なのだそうだ。

31 西吹(にしふ)ヶば東にたまる落ば哉

 私見だが、「ただごと俳句」だと思ってしまう。蕪村がこのような句を詠んでいたかと思うと、親近感が沸く。だが、単純な中に寓意があると読めば、「ただごと」ではなくなる。

36 御手討の夫婦(めをと)なりしを更衣

 武家奉公の男女が「不義密通」をはたらくとお手討ちになっても仕方がなかったようだ。蕪村が、人情噺を俳句に仕立てる小説的手法が得意だったことも、芭蕉や一茶とは違った一面であろう。

44 しぐるゝや鼠のわたる琴の上

 子規は「此句の主意は鼠が琴の上をわたりてチリンチリンといふ音と、時雨の音との配合に或るなり」として「蕪村の時雨の句中第一に推すべきものなり」と称賛している。小生にはそれほどとは思えなかった。現代の「鼠」と蕪村の頃の「鼠」が、人とのかかわりに置いて、相当変わってしまっていることが原因であろうか。

47 女倶(ぐ)して内裏拝まんおぼろ月

 蕪村は艶っぽい句をいくつも詠んでおり、芭蕉、一茶とは違っている。

49 なの花や月は東に日は西に

 超有名な句。陶淵明の「白日ハ西阿ニ淪ミ、素月は東嶺ニ出ヅ」や其角の「稲妻やきのふは東けふは西」が念頭にあったか。芭蕉の「古池や」、子規の「柿くへば」の句に匹敵する、とは内田の意見。

50 ゆく春やおもたき琵琶(びわ)の抱心(だきごころ)

 蕪村は晩年画業が繁盛し、裕福になったせいもあり、茶屋遊びを好み、馴染みの芸妓もできた。「琵琶の抱心」はそれに連なって解釈してしまいそう。

55 門を出(いづ)れば我も行人(ゆくひと)秋のくれ

 芭蕉の「この道や行く人なしに秋の暮」を想う。芭蕉へのオマージュである。このほか、蕪村には芭蕉を慕う句や行動が沢山ある。

62 若竹やはしもとの遊女ありやなし

 句意は、昔、橋本(京都府八幡町)には遊女が相当いたらしいが、果たして今もいるのだろうか、いないのだろうか、ということ。晩年、茶屋遊びなどの遊興を好み、芸妓を寵愛していたと言われる蕪村。芭蕉や一茶とは違う句柄である。蕪村の母の出自にかけて読む説もある(武西寛子著『松尾芭蕉集・与謝蕪村集』集英社文庫、一九七頁)。

66 折釘(をりくぎ)に烏帽子(えぼし)かけたり春の宿

 「折釘」は、柱や鴨居に打ち付けた釘で頭部を折り曲げてある。格式ある烏帽子掛けでないことが重要。宿の客は烏帽子をかぶるような貴人であるのだが、この宿は、そのような烏帽子掛けもないような粗末な逢引き宿の類だということ。ここまで読むのは初心者には難しい。

68 芭蕉去りてそのゝちいまだ年くれず

 芭蕉敬慕の句。蕪村は師宋阿の追善集『むかしを今』に、「我が門は、師宋阿の磊落な語勢には倣わず、芭蕉のさび・しおりを慕い、昔へ返したいと思う」と書いている。

69 さみだれや大河を前に家二軒

 蕪村を代表する句で、芭蕉の「さみだれを集めて早し最上川」と比較し、子規は、蕪村が芭蕉よりも優れた俳人であるとしている。確かに「大河を前に家二軒」という表現は、自然の力強さと人間の不安感を見事に対比させ、家二軒が今にも押し流されるという緊迫感がこの句にはある。芭蕉の「集めて早し最上川」は川や水の勢いは表現されているものの、あくまでも俳句的な技巧に留まっている。この句が、子規が、芭蕉を高く評価する所以となっている。

70 すゞしさや鐘を離るゝ鐘の音

 この句を、虚子、碧梧桐、鳴雪がこぞって凡句だと言ったが、子規が一蹴して名句だと評した、という。

75 身にしむやなき妻の櫛を閨に踏(ふむ)

 この句が発表されたとき、蕪村の妻は健在だった。虚構の句を平気で詠んだようだ。子規は、句の内容よりも技巧を賞賛したらしい。

76 恋さまざま願ひの糸も白きより  (表記にくり返し記号を使うこと)

 蕪村に諫言できる唯一の弟子だった道立(どうりゅう)が蕪村に書いた手紙に「御句にて小糸が情も今日限りに候」とあり、芸妓小糸を溺愛した蕪村を諫めたようだ。「糸」は小糸のことなのだろう。「願ひの糸」は秋の季語で、七夕の竹に五色の糸を掛けて、恋の成就や技芸の上達を祈るのだそうだ。中国の古典に基づいている。蕪村六十二歳の句。

80 秋はものゝそばの不作もなつかしき

 「秋はものゝ」は「秋はものゝあはれ」の略。これが分からないと読めない。芭蕉の「蕎麦はまだ花でもてなす山路かな」へのオマージュであり、芭蕉を敬慕する思いが強い。

82 我も死して碑に辺(ほとり)せむ枯尾花

 私が死んだらこの芒のようにこの碑のそばに葬られたいという句意。前書きに「金福寺芭蕉翁墓」とあり、京都市左京区一乗寺の金福寺にある芭蕉塚をさす(ここには蕪村らが芭蕉追慕のために建てた草庵がある)。逝去後、それは実現した。芭蕉追慕の念がこれほど強かったのである。

98 公達に狐化(ばけ)たり宵の春

 春の宵のひと時は、狐が秀麗な貴公子に化けるにふさわしいし、この貴公子こそ、雅な公卿の世界に心を遊ばせている蕪村自身と考えても良いであろう。画業と俳業で懸命に努力し、その甲斐あって名を成し、少し余裕のできた蕪村が、自らの願望を幻想的に詠んだものと解釈した方が、妖しい春宵にふさわし、と著者内田は考えている。

101 しら梅に明る夜ばかりとなりにけり

 絶吟である。なんと単純明快な句であろうか。蕪村を高く評価する萩原朔太郎が「印象の直截鮮明を尊ぶ蕪村として、従来の句に見られなかった異例である。(中略)句の心境にも芭蕉風の静寂な主観が隠見している」と述べている。芭蕉を敬慕した蕪村を熟知していた朔太郎の、死を前にした蕪村に対する餞の言葉としての解釈なのかもしれない、とある。


 
 
 

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