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坂本宮尾編『杉田久女全句集』




 俳句評論を能くする坂本宮尾が『杉田久女全句集』を編んだ(角川ソフィア文庫、令和5年9月25日発行)。久女の句集については、存命中に虚子に序文を願い出たのだったが、久女の行動に異常性を感じた虚子は、了解しなかった。そればかりか、昭和11年に日野草城、吉岡禅寺洞とともに彼女を「ホトトギス」から除名したのであった。

 久女が亡くなったのが昭和21年、そののち27年に、長女の石昌子が虚子に願い出て、『杉田久女句集』を角川書店より世に出した。

 今回の坂本の『杉田久女全句集』は、この昭和27年版『杉田久女句集』のほか、補遺Ⅰと、補遺Ⅱ、および久女の随筆9編、坂本による「杉田久女の15句鑑賞」と解説からなっている。久女の略年譜、初句索引、季語索引も付されており、久女研究のよき資料となった。拡散してしまっている資料など、膨大な量の原典に当たり、表記チェックや略同一句の削除などの細かい作業をこなした。その献身的努力に頭が下がる。


 『杉田久女句集』(昭和27年版)の冒頭には虚子の序文があり、つづいて久女の1385句があり、その後ろに石昌子の「母久女の思い出」が収められている。

 序文に、虚子はこう書いている……杉田久女さんは大正昭和に掛けて女流俳人として輝かしい存在であった。(中略)生前一時その句集を刊行したいと言って私に序文を書けという要請があった。喜んでその需(もと)めに応ずべきであったが、その時分の久女さんの行動にやや不可解なものがあり、私はたやすくそれに応じなかった。(中略)長女の石昌子さんから、母の遺稿を出版したいのだが一応目を通してくれないか、という依頼を受けた。私は喜んで御引受けするという返事を出した。(中略、原稿の体を成していないので、清書するように昌子さんに依頼し)昌子さんは丹念にそれを清書して再びその草稿を送ってきた。私は句になっていると思われるものに○を附して、それを返した……。

 そうして、この昭和27年版『杉田久女句集』が世に出た訳だが、この1385句から虚子が佳句として挙げたのは、わずか、次の10句であった。

  無憂華の樹かげはいづこ仏生会

  灌浴の浄法身を拝しける

  花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ

  むれ落ちて楊貴妃桜尚あせず

  咲き誇る外山の花をめで住めり

  桜咲く宇佐の呉橋うちわたり

  風に落つ楊貴妃桜房のまゝ

  むれ落ちて楊貴妃桜房のまゝ

  菊干すや東籬の菊もつみそえて

  摘み競ひ企玖の嫁菜は籠にみてり

 私見だが、楊貴妃桜の類似句が3句もあるし、他にももっと沢山の良い句がありそうなものだと感じた。私感だがたとえば、次のような佳句がこの句集に散見できるではないか。

012 春の夜や粧ひ終へし蠟短か

013 東風吹くや耳現はるゝうなゐ髪

014 歯茎かゆく乳首かむ子や花曇

017 指輪ぬいて蜂の毒吸ふ朱唇かな

018 花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ(前出)

019 捨ててある花菜うれしや逢はで去る

023 麻蚊帳に足うつくしく重ね病む

026 夏痩のおとがひうすく洗ひ髪

035 さみし身にピアノ鳴り出よ秋の暮

039 朝顔や濁り初めたる市の空

040 穂に出でて靡くも哀れ草の花

041 浅間曇れば小諸は雨よ蕎麦の花

047 足袋つぐやノラともならず教師妻

058 紫陽花に秋冷いたる信濃かな

066 病める手の爪美くしや秋海棠

072 退院の足袋の白さよ秋袷

087 ぬかづけばわれも善女や仏生会

088 焚き上げてうすき緑や嫁菜飯

088 防人(さきもり)の妻恋ふ歌や磯菜摘む

105 白妙の菊の枕をぬひ上げし

108 谺して山ほととぎすほしいまゝ

112 紫の雲の上なる手毬唄

114 釣舟の漕ぎ現れし花の上

115 風に落ち楊貴妃桜房のまゝ(前出)

116 望郷の子のおきふしも花の雨

119 鶴舞ふや日は金色の雲を得て

148 たてとほす男嫌ひの単帶

148 張りとほす女の意地や藍ゆかた

 太字で示した作品は、俳壇では結構知られている句ではなかろうか。虚子はあまり高く評価していなかったのだろうか。


 この句集には、長女である石昌子の思い出が付されてあり、興味深い記述があった。久女に関する俳人論あるいは伝記的な著作には、虚子の創作「国子の手紙」、松本清張の短編小説「菊枕」、秋元松代の戯曲『山ほととぎすほしいまま』、吉屋信子の『底のぬけた柄杓』、横山白虹の「一本の鞭」、さらに小生が読んで最も信頼できると思った田辺聖子の評伝小説『花ごろもぬぐやまつわる・・・わが愛の杉田久女』など、たくさんの論作がある。とくに田辺の著作は久女像の転換に大きく寄与したと思っている。また、坂本宮尾にも『真実の久女』があり、大変な労作である。

 石昌子のこの「母久女の思い出」の興味ある点をいくつか挙げれば、まず、……世間では久女は狂死したと思われているが、死亡診断書には腎臓病とあり、神経衰弱ではあったが全くの狂人でなかったことは確かである。悩み多い久女はキリスト教に救われようと洗礼を受けた。きっかけはある熱烈なクリスチャンに勧められたからであったが、その人との仲を疑われ、中傷され、結局、宗教の世界から離れた。34歳の頃であった。母と父(杉田宇内)は、育ちも性格も違った。宇内は真面目一方で、頑固一徹なところがあり、母は植民地(台湾)の明るい色彩の中での温室育ちであった。一時、離婚の話が出たようだった。俳句に凝った母は、昭和5年の日本新名勝俳句の募集に〈谺して山ほとゝぎすほしいまゝ〉を投句し、最優秀賞20句に入り、7年には俳誌「花衣」を創刊した。これは5号で廃刊したが、経営難からではなく、健康状態が原因であった……という意味のことを昌子は書いている。

 さらに続ければ……病気は筋腫の悪化らしかったが、夫に相談するには二人の仲は隔たってしまっていた。昂じて神経衰弱になり、昭和11年にはホトトギスを除名されるに至った。一生に一冊は句集が欲しいと言っていたが、それから20年経って、虚子先生にお願いしてみた……と書いている。この部分を引用しておこう。

  虚子先生は、終始必ずしも尋常でなく、苦しい疼きから、師にぶつかって行った弟子で

 あったにも拘らず、こだわりを一言も見せられなかったばかりか、心厚い理解の眼を注い

 で下さった。数多い門下の中でも、これ程最後をお世話になった者はあるかどうかと思わ

 れるのである。(中略)母に代り先生に厚く礼を尽くしたいと思う。

 

 この全句集は、続いて、補遺Ⅰ、補遺Ⅱと続くが、昭和27年版の『杉田久女句集』以外にどのような句集が出版されたかを見ておこう。坂本だけでなく、久女への多くの好意が幾つかの句集発行に繋がっているのである。

 昭和27年版を編年体に組み直し、未収録の244句を収録したものが角川書店から出されている(昭和44年)。昭和59年には、「俳句」の臨時増刊として『杉田久女読本』が出され、さらに平成元年に立風書房から『杉田久女全集』が598句を拡充されて出版された。今回の坂本宮尾編の『杉田久女全句集』の補遺Ⅰはこの立風書房版を底本としている。

 補遺Ⅱは、その後に見つかった句を纏めたものであリ、大部分は、平成15年に私家本として出された『最後の久女 杉田久女影印資料集成』(石昌子編)に依っている。さらに、昭和15年に石昌子夫妻に久女から贈られたていた折本「久女作品集」をも収録した。さらに「花衣」からの未収録句、色紙として残されていた句、「ホトトギス」「電気と文芸」(長谷川零余子編)、「曲水」「玉藻」「藁筆」「木犀」「天の川」に発表された若書きの句、北九州市在住の増田連の「数の子」「無花果」、久女が指導した句会の「白菊句会報」等々も収録している。まさに落穂拾いの作業であった。地元で永年資料を集めてきた増田連、そして北九州市立文学館にも、坂本は大変お世話になったようだ。

 

 久女の随筆も、虚子への手紙などを含めて9編収められている。中から時代背景が分かるという点で興味深い一編を抄録しておこう。

 表題は「女流俳句の辿るべき道は那辺に?」である。俳句の世界は男社会であった。「女なんか」と批判される世情にあって、女は家事・育児、それに家の体面を保つための雑事があり、久女自身も朝5時ころに起き、夜は1時を過ぎることもあった。この悪条件下で俳句を続けるには「行けど行けどつきせぬ俳句修行の永い道程を一歩一歩辿る努力、苦心が必要だと思います」とある。「本を沢山詠んでいる頭の良い男子方が、女なんかとけなされるところには女の不勉強研究心の足りなさ、努力も迫力もうすく、眼界せまい事等、到底男子に追従してゆけぬ点で、我々はけなされても仕方がないと。しかし私は直ぐ考え続けます」、「女なんか、とけなされる所に、女性の特色があり、女流俳句の進むべき道があるのではないか? と」、「女の天性直感的で感じがつよく、こと事に感情の波動を起こしやすい点。そうした性情に女流は男性のたがやし残した境地を益々開拓してゆくべきではなかろうかと」、「女流はつつましく黙々と時々忍従し、自然の前にぬかずき、象牙(ぞうげ)の塔にぬかずきつつ、敬虔(けいけん)な足取で、男の方のなぎ倒しふみにじりつつ通った野菊をも静かにひき起す優しさ女らしさで侮蔑(ぶべつ)にほほえみつつ婦人らしい近代的感覚情緒を、観察を、家庭内を、自然を、素材として偽らぬ自己の俳句を次第次第にきずき上げてゆくのが婦人俳句のゆくべき道ではないでしょうか」。

 なかなか当を得た考えである。女であることをむしろ武器にして女にしか読めない俳句を志せ、と言っている。以下は私見であるが、こうなると、小生などは、女性性をあらわにした橋本多佳子のような方向を思うのだが、久女の女性性は少し違うように思える。そこには〈足袋つぐやノラともならず教師妻〉のような社会性があり、〈花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ〉のような嫋やかさを追求した句はむしろ少ないのではなかろうか。女性性というよりは、むしろ、母性性といった方が良い句は結構多い。二人の娘を思う句である。娘可愛さに離婚には踏み切れなかったのだ、という見方には賛同できる思いがする。

 

 坂本が選んだ久女句15句の鑑賞も載せられている。句だけを掲げておこう(実際は17句が鑑賞されている)。

  鯛を料るに俎せまき師走かな

  笹づとをとくや生き鮎ま一文字

  紫陽花に秋冷いたる信濃かな

  朝顔や濁り初めたる市の空

  夕顔やひらきかゝりて襞(ひだ)深く

  谺して山ほととぎすほしいまゝ

  ちなみぬふ陶淵明の菊枕

  初夢にまにあひにける菊枕

  風に落つ楊貴妃桜房のまゝ

  海(み)松(る)かけし蜑の戸ぼそも星祭

  雉子鳴くや宇佐の盤境(いはさか)禰宜ひとり

  磯菜つむ行手いそがんいざ子ども

  防人(さきもり)の妻恋ふ歌や磯菜積む

  栴檀の花散る那覇に入学す

  鶴の影舞ひ下りる時大いなる

  張りとほす女の意地や藍ゆかた

  冬の灯の消ゆるが如く兄逝けり

 

 久女についての坂本の解説も興味深かった。小生が認識を改めた何点かを抄録しよう。

 久女の著名な句に〈足袋つぐやノラともならず教師妻〉があるが、坂本によれば、この句は今でいえば時事句であるという。この句が「ホトトギス」に入選するとその大胆さが目を引いた。以後、久女のヒステリックな側面を示す証拠として、引き合いに出されてきた句である。時代背景として、坂本は、イプセンの『人形の家』を松井須磨子が演じて話題になり、地元の歌人柳原白蓮が炭鉱主である夫に三下半を突き付けて若い恋人のもとへ去るという衝撃的な出来事があり、新聞は「日本のノラついに家出」と書き立てた、と書いている。このホットな話題を手際よく詠み込んだようだ。私見だが、この句が人口に膾炙した理由は、その起源が時事的事象であったとしても、女性の生き方というテーマが、一回性でも一過性でもなく、歴史的テーマとして現在にすらつながっているからであろう、と小生は思っている。

 久女の句集発行については、不幸が続いたようだ。虚子に断られたことが事の起こりであるが、戦後、「俳句研究」の編集長の石川桂郎の好意で目黒書店から出すことになり、広告が同誌に掲載されるまで行ったのだが、目黒書店が倒産してしまった。その後、石川の尽力で角川源義が引受け、昭和27年版の句集が初めて日の眼を見たのであった。

 「解説」の中で、坂本は久女の句業をどう総括しているだろうか。次のように書いている……高浜虚子は句集の序文で、久女の句風を「清艶高華」と評した。この評言から、句集出版をめぐっての確執はあったものの、虚子は久女の俳句の美点を認め、評価していることが窺われる。俳句という詩型の魅力に取り憑かれた久女は、家庭内で諍いを起こし、また俳壇で多くの軋轢(あつれき)を生みながらも作句に熱中した。久女は対象に向き合い、その真髄を摑(つか)もうとして、並外れた集中力を発揮した。大正期に台所雑詠で学んだ初学時代から、わずか十年余りで内容も表現法も突出した独創性を示す句境に到達したことは驚嘆すべきである。彼女の高い美意識、古典への造詣(ぞうけい)は、韻文の格調を保つ端麗な作品を生み出した……。

 坂本の久女評価に異論はないものの、私見として、虚子が心底(しんそこ)久女を高く評価していたならば、1385句から僅か10句しか選ばなかったことは、当時の虚子が如何に多忙であったとしても、小生としては不満である。久女の作品を「清艶高華」と褒めながらも、彼女の性癖を嫌う気持ちが、まだ残っていたのではなかろうか。

 

 とまれ、久女の俳句世界の全貌を、この全句集で知ることができるのは、坂本の苦労の賜物である。俳句愛好家の一人として深甚の謝意を表したい。

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