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大石 恒夫 「夢」を読んで

 『俳句の杜』2022 精選アンソロジーより


   

 大石さんの作品100句は「夢」というショート・エッセイから始まる。「夢」にかかわる芭蕉・兜太・完市などの著名な俳句を挙げ、その中に次のような作品を交え、

  夢殿をまた通り過ぐ春の夢   塩野谷仁

  回廊のどこまでが夢冬の鹿   清水 伶

  夢ですか金木犀の香の行方   五島瑛已

  石けりの小石を探す春の夢   大石恒夫

佳い句を作りたいという「願望的な夢」が「はかない夢」になりそうだとの心配を書いている。そして、覚めていては思い浮かばないような奇想天外な俳句や物語の夢を見るには、楽しかった諸々を思い起こし眠りにつくことだという。大石さんの楽しい思い出は、フランスのぶどう園でアルバイトをしたこととか、ただ寝そべって長い間、空を見ていたことであったようだ。

  雑談のような診察花アカシア

 最初に取り上げるのはこの句である。大石さんは九十四歳の外科医。実は大石さんを良く存じ上げている人が小生の友人にいて、彼によれば、大石さんは高齢ゆえもう外科医院を閉じられたが、同じ敷地内に身内が内科医を開いており、そこをときどき手伝っているらしい。大石先生ファンが多くて、そうする必要があるのだそうだ。説明が長くなったが、これで「雑談のような診察」の意味が分かってもらえるだろう。もう少し言わせてもらえば、最近の診療は、若い医師が検査データのコンピューター画面ばかり見ていて、患者の顔を見ない場合が多いようだ。顔色や肌の色つやが肝要なのに、腹立たしいことこの上ない。大石さんの診察は、世間話から始まるのだろう。理想的である。

 大石さんは、俳句を八十歳から始め、「遊牧」などに所属し、句集は三年前に『石一つ』を上梓している。

  見つめれば一つは木霊二重(ふたえ)虹

ときどき「二重虹」を見ることがある。その一つは「木霊」だという。確かに二つのうち一つはやや薄い。それが濃い方の虹の「木霊=谺」なんだという意味だろうか。童心いっぱいの面白い見立てである。メルヘンの様でもある。ショート・エッセイに夢を書くひとの感性がここにも出ている。

  花菜漬いつより父の無骨消え

  修司の忌父似の背中さみしくて

  すかんぽや母探すなら隠れ沼

  葱切って亡母の伏目に逢いにゆく

  青鬼灯南冥に兄水漬きたる

 無骨だった父が丸くなった。「花菜漬」がしぶい。母は「伏し目」がちの人だった。これらからご両親のお人柄が想像できそう。「葱切って」がなかなか思いつかない。兄上は南の海で戦死されたようだ。戦時中、大石さんはまだ軍隊にとられる年齢ではなかったようだ。小生は、実は四人兄弟の末っ子だった。長兄はまだ徴兵される年齢でなかったが、数年違っていたら、とられていたかもしれない。戦争で子を失くした親たちが多かった。子一人につき親は二人だから、悲しみは二倍。やるせない思いである。

  まぼろしの夜汽車が路地にかき氷

 なぜか私は攝津幸彦の〈露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな〉を思い出した。攝津の句はノスタルジーの句だが、大石句もそうなのであろう。「夜汽車」に乗って遠くへ行くのが、子供の頃の憧れだった。脳裏には、その「夜汽車」がやすやすと近所の「路地」に入ってきて、なんとその中に自分が乗っている。そして「かき氷」を食べているのだ。懐かしい「夢」かも知れない。

  初えくぼ老師の歌はパパゲーノ

  エゴンシーレ落莫とある花の夜

  ショートボブ斜めに流し立夏かな

  春の蝶地下でモンクのジャズピアノ

  ディスカウの冬の旅聞く百合鷗

 「初えくぼ」(=初笑い)を使いこなした句に初めて出会った。調べたら京極杞陽に〈その人に浮かばしめたる初靨〉が見つかった。それよりもこの「パパゲーノ」には恐れ入った。モーツアルトの「魔笛」の主人公で自殺願望をこらえる人の代名詞的な存在として使われているようだ。決して健康的でない画風の「エゴンシーレ」に「落莫」はうまい。大石さんの興味は若い女性の髪形「ショートボブ」にも及ぶ。「モンク」は米国のジャズピアニスト。「ディスカウ」はドイツの声楽家で「冬の旅」が有名。「冬の旅」はこの場合は季語にならないから「百合鷗」を配合した。気配りが細やか。

 大石さんの関心の領域は広い。

  ガウディの未完のドームしぐれ虹

  斑雪ラスコリニコフが斧を振る

  ラファエロの聖母子眠る辰雄の忌

 ガウディ、ラスコリニコフ(「罪と罰」の主人公で、斧で人を殺めた)、堀辰雄などにも関心があるらしい。「辰雄の忌」は二句ある。世界の芸術全般に幅広く関心が及んでいて、それが句材になっている。


 大石句には俳句としては意外性のある句もあるが、おおむねは平明な句である。しかし、平明に見えて、私にはけっこう手ごわい句もある。

  鴛鴦にふたつの夕日逗(とど)まれる

  春の闇真水求めし大愚など

  サングラス我の変異に逢いにゆく

 「ふたつの夕日」が難しいし「逗」も然り。「鴛鴦」は羽の色調が鮮やかで美しく、いつも「番ひ」で寄り添っている。そこに「夕日」が当たって、あたかも二つの夕日が水面に浮いているようだ、というのであろうか。自分ながら下手な鑑賞だと思うのだが、景は美しい。二句目は、酒を飲み過ぎて夜中に起きだし、冷たい水を飲むのだろうか。深酒をし過ぎた自分を「大愚」と客観的に表記した。だが「など」が難しい。もっと深い寓意がありそうだ。三句目も「逢いにゆく」が第三者的表現で面白い。「変異を確かめに」とするのが普通なのだが、「変異に逢いにゆく」で成功した。


 小生にとって興味深い作品をいくつか鑑賞したが、概括的な感想を述べれば、この作品集は、大石さんがその広い趣味の世界を遊ぶ100句から成っていて、一か所に留まらず、次から次へと夢を追う若い精神性をもった人の作品集である、と言えそうである。老境にあれば、普通は完成度を重視した枯れた句を詠むのだが、大石俳句はそうではない。

 ただし、次のような句もあり、私としては嬉しくなるのである。

  はなびら餅夕べ密かな老い二人

                     (本阿弥書店 2022年9月30日発行)

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