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大関博美著『極限状況を刻む俳句―ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』

更新日:2023年7月26日




 大関さんは千葉県の温暖な在に育った。父は、戦後、ソ連に抑留され、苦難をこえて昭和二十三年十月に舞鶴に帰還した。苦労のことは語らなかったそうだ。

  シベリアの父を語らぬ防寒帽   博美

 第一章は、日清・日露からアジア・太平洋戦争までの歴史を振り返りながら、何故、ソ連が日ソ中立条約を突如破棄し、戦後も捕虜に係わる国際条約を無視したのかを、歴史的に俯瞰している。第二章は、抑留者への直接取材、第三章は、シベリア抑留俳句を収集。第四章は戦後七十年を経ての抑留俳句を取材し、第五章は、満州からの引揚者の俳句を紹介している。本書は、極限に置かれた者の記録であり、俳句が彼らにどのような意味があったのかを書いている。2023年7月10日、(株)コールサック社発行。


 どんな俳句があるのかをすぐ紹介すべきであるが、抑留者の「ダモイ(帰国)」までの過程の中で、小生が知らなかった事実が多く書かれているので、その部分をまず紹介しよう。その前に、ポツダム宣言第九項に「日本国軍隊は完全に武装を解除されたる後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的な生活を営む機会を得しめられるべし」とあることを思い出しておいて欲しい。

 極寒の地シベリアでの食糧不足や強制重労働の実態は、よく知られているが(抑留された者五十七万五千人、内死亡者は五万五千人)、抑留者の栄養状況によって健康度が六段階に分けられ、重労働・軽作業・室内作業・療養などに分けられていたことは知らなかった。健康度は医師が抑留者の尻の肉を指でつまんで、ハリの有無で決めた、とある。衛生状態は劣悪で、夜は南京虫に襲われて眠れなかった。栄養失調で死ぬ者が続出し、埋葬は抑留者に任された。凍土に墓穴を掘るのが困難で、焚火をして土を溶かし、少し掘ってはまた焚火をくり返した、という。一つの穴に三、四の遺体を一緒葬った。

 ソ連側は、抑留者の団結を嫌い、社会主義賛同者を選んで共産主義的民主化運動を教育し「アクチブ」を育成し民主活動を担わせた。ようやく「ダモイ」と決まって、帰国船に乗ってからも、社会主義を日本に広めるという意識を持った「アクチブ」と、彼らに密告されるなどの苦痛を味わされた者たちとの溝、あるいは不当に厚遇をえていたと妬まれていた者と、そうでない者たちとの深い溝が、船内でのリンチを生んだ。本書では少なくとも六人が海に放り込まれた、とある。ソ連の監視も日本政府の実効的な保護も及ばない船上での、集団殺人事件ではないか。

 抑留施設はシベリア以外にもあり、東はカムチャッカから西はウクライナやコーカサスに及んでいる。施設間の移動も「ダモイ」といわれ、嬉々として乗り込んだ貨車は北へ向かったとある。騙され続けたようだ。国際条約上の捕虜の待遇は、将校クラスより上にだけ適用され、一兵卒はただ単に労働要員だった。対ドイツ戦で働き手を失ったソ連は、重労働者群を欲していたのである。


 前書きが長くなった。抑留者たちの俳句を、読んでみよう。悲惨で直情的な現状描写が多く、衝撃を感じる。ここでは、「俳句」という文芸として、平時の現在でも、いや、平時だからこそ、感銘を齎すであろうと思われる作品を再掲させて戴いた。


  万葉集もつことも反動スウチャンへ   小田 保

  日本人打つ日本人暗し日本海      同

 スウチャンはウラジオストクの北120キロにある抑留施設。小田氏は将校の立場であったようだ。収容所で盛んになっていた民主化運動の影響で、「万葉集」を持っているというだけで吊るし上げられ、ソ連側へ密告され、帰国組に入れず、奥地のスウチャンへ送られた。帰国船を目の前にしての出来事であった。口惜しさと絶望感は察するに余りある。

 二句目。政治教育により、シベリア・デモクラシーを信じた「アクチブ」たちにより、「ロシア語の通訳をしていたから、いい思いをしていたに違いない」との妬みを持たれ、吊るし上げられ「反動」とされた。彼はそのような将校のひとりだった。

 先にも触れた通り、帰還船内での抗争で日本海の藻屑と消された人たちがいたが、依田という衛生兵は、政治学習会に出ていたので反対勢力からの逆恨みで海に投げられそうになった。先に呼びだされた学習組の六人が犠牲になった。依田は七番目であった。衛生兵だったから、「許してやれ」とのリーダーの一声で助かったようだ。

  喊声や大鮭一尾手捕りたる       石丸信義

  靴音や句帖を隠す雪の中        同

 川に溯上してきた鮭を捕ったことは、抑留者たちにとって、一大歓喜であったろう。数多くの苦難の句の中にこのような句を見つけ、嬉しく思った。二句目は、そうしてまでも俳句を書き綴った意思を想う。 

  丸腰の身軽さ悲し秋風裡        黒谷星音

  わが入る柵作らむと氷土掘る      同

  死にし友の蚤がわれを責むるかな    同

  棒のごとき屍なりし凍土盛る      同

 一句目は武装解除のときの句。二句目以降はバイカル収容所での句。

  かさね臥し誰の骨鳴る結氷期      庄司真青海

  借命や撃たれきらめく宙の鷹      同

  初蝶をとらえ放つも柵の内       同

 庄司真青海(まさみ)の句から。収容所のベッドは蚕の棚のよう。結氷期には寄り添ってお互いの体温で温め合う。寝返りのたびにやせ細った骨の音がする。二句目は警備兵の機関銃で撃たれ、きらきら光り落ちてくる鷹に、借りているだけの自分の命を重ねた。三句目は、自由にしてやった初蝶も柵の中だけのこと。諦観ともとれる。

  ちちろ闇子の顔を見るマッチの灯    高木一郎

  紙衣きてボルガの風に対しけり     同

  白夜しんかん妻ある如く帰り寝る    同

  貨車揺るる隙間風にも耐へるべし    同

  子は膝へ炭火美し妻も来よ       同

 一句目は、敗戦で混乱状態の牡丹江の停車場での一句。二句目の「紙衣」は、本来は風流な季語だが、ここではセメント袋。強烈なイロニーの句。四句目。いよいよの「ダモイ」。貨車に揺られ二十日間。隙間からシベリアの大枯野が見えた。そして五句目。無事帰国で来た。1947年10月31日だった。

  書を焼くと秋暑の土にひた坐る     長谷川宇一

  恥じぬ身ぞ吾子高らかに豆を撒け    同

  独房の寒夜を蜘蛛の生きてゐし     同

  棺打つやこだまもあらず秋の風     同

  父欠けて何処か祭る古雛        同

  小包に見る妻の貧春時雨        同

  夜の凍てを興安丸に駆けあがる     同

  十年を一と昔という冬の海       同

 著者大関はここで捕虜というよりは戦犯として拘留された長谷川の作品についても調べている。いままでは一兵卒の句が多かったが、長谷川宇一は関東軍の広報部長(陸軍大佐、参謀)の地位にあり、二十五年の刑の判決を言い渡され、ソ連各地で戦犯として服役した。東京外語大学でロシア語を、東京大学文学部を出ている。

 一句目は敗戦により急遽公文書類を焼却したときのものであろう。立秋すぎとはいえ暑い八月十六日のこと。二十日にはロシア軍がくると分かっていた。二句目は、遠く離れた子供たちに想いを馳せた句。三句目は、独房の句。蜘蛛は、通常、夏の季語である。そこがかえってこの句の普通ではない状況を物語っていて、花鳥諷詠的気分ではないのである。四句目は、ひとりまたひとりと死んでいく仲間への寂寥と、冬の訪れとともに自分に近づく「死」への不安を書いた句である。牢獄の監視孔の死角に、拾ってきた釘や取り調べの際にくすねた短い鉛筆で、暦と俳句を書きつけてきた。

 十一回目の移動で将校だけの収容所ラーリゲに入った。気を許して細坂という男に話したことが、後で問題にされた。細坂は赤の幹部であった。そこから長谷川への集中攻撃が始まった。ソ連側は抑留者同士の吊るし上げを容認していた。長谷川は次のような意味の文章を残している。「世間を知らぬ若い純情から初めは吊るし上げられても、彼らの心情に同情していたが、そのうち、汚い自己中心の打算でやっていることが分かると馬鹿らしくなり、反感が生まれ憎らしくなった。つまり彼らは帰国したい、それだけのために共産主義を分かったと言い、日本に帰ったら入党し、日本の社会主義化に協力し、米国駆逐に挺身するのだ、という事で帰国者名簿に載せて貰うことを目的としていた」(長谷川宇一、「遺稿 シベリアに虜われて」)。

 六句目。昭和二十八年の二月から小包が受け取れるようになった。少しばかりのシャツとキャラメルだった。妻たちの「貧しさに胸が痛かった」とある。十一月の末、赤十字の白い船が来た。空の倉庫のような変な小屋で待機させられていたが、二十五名ずつトラックに乗せられて船の前に運ばれた。夢中で駆け上がった。看護婦の顔がとても美しく、声にも潤いがあった。この船が興安丸であった。昭和二十八年十二月だった。

  ライラック咲くと故国へ初便り     川島炬士

    昭和二十八年三月四日ソ連の独裁者スターリン死す

  生光のあまりに眩し弔旗垂る      同

    五月十日モスクワにて日ソ漁業交渉中河野農相慰問

  木の芽立つ大臣の語る祖国のこと    同

  故山せまるふる郷の雪はあたたかし   同

 川島炬士(きよし)は軍医で少将だった。五十歳で、満州の牡丹江で終戦を迎えた。十一月に病院列車でハバロフスクに移され、拘留生活が始まる。軍事裁判で強制労働二十五年の刑が言い渡され、シベリア鉄道でモスクワを経てやや北東にある収容所に送られる。

 川島の句は、前書きがあって、世情が良く分かる。第一句目は昭和二十七年のこと。それまでは祖国の家族との手紙は許されなかったようだ。二、三句目。前書きから、国際状況の変化と川島らの希望の膨らみが手に取るように分る。そして最後の句は、昭和二十八年十二月二十四日、ナホトカを出て、二十六日に舞鶴港に着いたときのもの。雪が温かいのである。

 川島は、自分の句を仲間に見せたら「悲壮感」が薄いと言われたと語っている。「私の俳句の眼はおのずとうつくしいもの、心地よいもの、憐れなものに向きやすいようである」「暗黒のなかでに一縷の光明こそは俳句であった」とある。

  手拭で目隠しをされ 日本兵 撃たる  鎌田翆山

  一階級あげて 俘虜の墓標立てたり   同

  隣なる俘虜の 死を 知らざりし 寝落ちたる 同

  裸にされし 俘虜の屍を 俘虜が運ぶ  同

  逃亡をさそはれゐて 雪の柵 見上ぐる 同

  柵近く 行きて 逃亡の俘虜撃たる   同

  わがパンを 盗みし俘虜を 呪ふ    同

  母に逢うまでは死なず 夏の砂漠暮る  同

  桟橋渡る 一歩一歩がソ連はなれる   同

  炎天の地べたに座し 故国の声 きく  同

 鎌田翆山(すいざん)は黒海近いウズベキスタンのタシュケント収容所を経て、パミール高原で抑留生活を送ったので、厳寒のシベリアの抑留者とは違っていた。もちろん俘囚としての苦難は同じである。蒲田は「馬酔木」に入っていた。一文字あけの俳句を書いている。

 一句目。抑留地へ送られる途中の景はひどいものだった。ソ連兵の遺体は片付けられていたが、日本人のそれは、目隠しされ後ろ手のまま死んでいたのもあった。食糧事情が極めて悪く、疲労は限界に達し、躓いて転んでも一人では立ち上がれなかった。将校たちは別扱いで、作業もなく、空腹を知らずにいるとは、戦犯になるべき者が、優遇されるとは何故なのか疑問であった。死者の階級を上げてやるのは、せめてもの手向けであろう。

 最後の句、昭和二十三年七月十三日、七年ぶりに家族のもとに帰った。


 抑留者の俳句を一通り見てきた。知らなかったことが多かった。

 後の章に満蒙からの引揚者の俳句も紹介されている。小生は、俳人協会会長の大串章さんに、その一家のご苦労をつぶさに聞いて、涙したものだった。なお、俳人協会発行の『俳句文学館紀要』第22号(2022年)に新谷亜紀の「満蒙開拓移民の俳句」があるので、興味のある方にお勧めしたい。


 大関博美氏の詳しい調査と聞き取りに敬意を表します。


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