著者太田は「濱」の大野林火、ついで松崎鉄之介に師事。一九九四年に大串章の「百鳥」創刊同人。濱賞、俳壇賞、俳句研究賞などを貰っている。現在「草笛」代表でもある。著作に句集や俳書が多い。該著は二〇二三年四月一日、百鳥叢書として発行されている。
大野林火といえば、子規の弟子の臼田亜浪系列で、「ホトトギス」とは持ち味が少し違う。小生にとっては、亜浪→林火→鉄之介、そして大串の「百鳥」と、抒情の系譜であるとの理解である。蛇笏賞を受け、俳人協会会長を務めた。太田の選んだ百十句から、印象深かった幾つかの作品を挙げてみよう。
003 燈籠にしばらくのこる匂ひかな
林火は昭和六年の大晦日に幼い長男を亡くし、翌年三月に妻桂歌を失くしている。その新盆の折の句である。燈籠を消したのだが、蜀の匂いが林火を離れないのである。哀しい句。
翌昭和八年、林火は横浜市の弘明寺に転居する。私事ながら、小生は隣町に住んでいたことがある。
007 征くひとに一夜の宴の螢籠
万歳をして華々しく兵士を送り出す……ようには書いていない。誰もが口に出せなかった心情が、惻々として伝わってくる。
010 冬雁に水を打つたるごとき夜空
昭和二十年五月二十九日、大空襲で横浜は焼け野原になった。こんな時、人は不思議なことに星や月の美しさに気が付く。そしてそこから立ち上がる。小生はこの句に励まされて、「濱」門に入ったハンセン病患者を知っている。村越化石である。彼自身が小生にそう言ってくれたのである。楽泉園でこの句に出会わなかったら、化石の存在はなかったであろう。
012 野分めく午後の授業へ椅子離れ
この頃の林火は教師だった。俳句に傾きながら、敗戦もあり、悩んでいたようだ。結局、このあと教師を辞し、退路を断った。「濱」は千部を超えていた。
013 ねむりても旅の花火の胸にひらく
林火が戦後初めて長旅をしたときのもの。米持参の時代である。「心から美しいと思った」とある。これも私事ながら、小生は化石を取材のために何度か草津に泊まったが、その宿「大阪屋」だったかどうかは自信がないのだが、宿にこの句を揮毫した短冊が飾られていた。下五が六音だからか、なんとなくゆったりと響いて来るものよ、と感激したのであった。
015 耕せば土に初蝶きてとまる
弘明寺の林火邸の狭い菜園である。だが、この句からは広大な畑と大地を渡って来る蝶の群れを想起し、大自然のいのちを想う人が多いであろう。
017 雁や市電待つにも人跼み
横浜の市電はまだあった。戦争が終わって、人々には非合法の買い出しが日常となった。
著者の太田のこのような解説がないと、読み飛ばしてしまいそうな句である。疲れ果てた人間と渡り鳥の雁の営み、いやがうえにも人間の弱さが際立っている、と太田は鑑賞している。
018 つなぎやれば馬も冬木のしづけさに
まだ牛馬の働きが珍重されていた時代。労働を終えた馬が繋がれて、冬木に同化したような静謐さ。
023 鳥も稀の冬の泉の青水輪
小生は知らなかったが、弘明寺の裏山つづきに泉があるそうだ。時が止まったような静寂がある。思い返すと林火に「静寂」な句が多いではないか。
027 みちのくの夜露のくらさなほ北あり
この句は「なほ北あり」で出来上がったように思う。岩手県宮古市で詠まれた。道中、民家も絶え絶えな地を行ったのであろう。この頃は、弘明寺から神奈川区白幡街に転居している。
034 昏くおどろや雪は何尺積めば足る
草津楽泉園。毎年俳句指導に行っている。林火は、行く度に患者たちの熱意に、かえって刺激を得ていたようだ。
036 雪の水車ごつとんことりもう止むか
楽泉園へ向かう途中の道筋で見かけた水車。オノマトペが決まっている。
038 吊されて雉子は暖雨に緑なり
横浜中華街は「濱」のテリトリーである。裏通りは珍しいものに出会う恰好な場所である。
039 雁瘡の子にちりちりと西日憑く
角川の「俳句」の編集長の頃の作品
042 おをざめて月の根室の坂と海
よく旅行に出た。昼間は国後島も見えたであろうか?
051 人の行く方へゆくなり秋の暮
横浜駅西口。「老い」を感じ始めた句。
059 あはあはと吹けば片寄る葛湯かな
何と自然体な句であろうか。「ただごと俳句」のように見えるが、この句も「老い」を感じる句。「小品の味があり、嫌いな句ではない」と言ったとか。
063 紙漉きのこの婆死ねば一人減る
なんと素気のない句であろうか。林火が詠むのだから、深い思いがあるのだろうと、作者を信じて読みなおしている自分がいる。ここは京都府の黒谷和紙の無形文化財の地であった。後継者不足の悩みがあるのである。その意味で社会詠的でもある。
065 おしくらまんじゆう路地を塞ぎて貧などなし
あたかも社会性俳句のよう。林火の句柄の広さを想わされた。昭和42年の句集『潺潺州』の作品であった。
73 鳥よぎる冬木はあれどとまらずに
このころ寂寥感のある句が続いている。透徹しているといっても良い。
075 濤寒しうたひておらは雇人(やとびと)だ
これも社会性のある句。能登へ旅して、塩田のための砂を運ぶ重労働者の労働歌「砂取節」を聞いた。そう聞くと、沢井欣一の〈塩田に百日筋目つけ通し〉の句を思い出す。同じ能登である。
085 麨や妻をこよなき友として
昭和48年の『飛花集』にある。なかなか言えないことをさらりと言ってのけた。地味な季語「麨(むぎこがし)」がぴったり。
087 カレーの黄銀杏の黄母校通り抜け
林火は大正十三年に東大経済学部に入学し、大学付近に下宿したそうだ。
088 亞浪忌の馬齢のみ師に近づくや
師亞浪は享年七十二歳。このとき林火は古希目前であった。それ故の感慨である。なお、林火は七十八歳で亡くなった。
091 僧のごと端座すずしく盲化石
化石の『山国集』出版の記念会。化石はこの句集で俳人協会賞、次の『端坐』は蛇笏賞だった。
093 落花舞ひあがり花神の立つごとし
吉野での花を詠った三句の一つ。「桜遍路は今の私の楽しみの最たるものだ」と語ったようだ。余談だが、坂口昌弘はこの句をしてアニミズム典型の句だと述べている。
099 夕焼川あはれ尽して流れけり
「あはれ尽して」が凄い。鬼怒川だったようだが、何処の川でも良いように思うと著者太田は書いている。
104 家中を秋草にせよと抱へくる
林火の家にはいつも季節の野の花が飾られていた、と太田が書いている。林火の好きな秋の花に松虫草がある。化石にも〈松虫草今生は師と吹かれゆく〉があり、草津に行くと抱えきれないほどの松虫草を摘んで、草津の定宿「大阪屋」に飾るのだそうだ。太田は昭和五十七年八月、秋草を以て師を見舞ったが、願いは叶わなかった、とある。
106 養蜂一家夜は長城の月を浴び
俳人協会訪中団を率い、北京、蘇州、無錫、上海をまわった。長城の域にはアカシアが咲いていたそうだ。小生はアカシアの蜂蜜を想った。
110 萩明り師のふところにゐるごとし
辞世三句の一つ。昭和五十七年八月二十一日午前四時半。萩は先師から株分けしてもらったもの。師弟の間の永い間の愛情を感じる。
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