奥坂さんの第四句集である(ふらんす堂、2021年7月16日発行)。氏は昭和61年に「鷹」(藤田湘子主宰)に入会。鷹新人賞、鷹俳句賞、俳人協会新人賞などを受賞しておられる実力俳人である。表紙の「うつろふ」の印字は、大きな平仮名で、斜めに、上部の灰色がかった色調から、下右に行くほど赤みがかった茶色にグラデ―ションが施されている。まさに「うつろひ」感が表出されている。あとがきには「(第三句集)『妣の国』は、俳句の師や先達との別れ、両親の看取りなど、私にとって死者を送る句集でした。(第四句集の)『うつろふ』は、自ら死と向かい合う句集となったと感じています」「〈うつろひゆくもの〉のひとつとして、季語に捧げる句を読み続けたい」とある。
奥坂さんの自選の句は次の15句。
炎天や何求(ま)ぎて波つぎつぎに
ひるがほや死はただ真白な未来
造り滝みづべらべらと落としをり
月光に山征きにけり新豆腐
星なべて自壊のひかりきりぎりす
本ひらくやうに冬青空仰ぐ
野に山に枯みなぎりて醇乎たり
息の根のごとき海鼠を摑み出す
寒晴や高さ貪るビルの群
鮟鱇の恵比寿笑ぞ畏ろしき
春浅し川総身の鱗波
ひろびろと波打つ布のやうに春
一山の絶唱の花吹雪かな
桜散るいつもわれらを置去りに
春の星この世限りの名を告ぐる
小生の気に入りの句は次の通りであった。(*)印は自選句と重なったもの。
007 やや老いて写真館出づ罌粟の花
022 夕立にどつと亜細亜が匂ひけり
039 初秋や天与のいろの藍木綿
041 石榴落つ希臘の神の恋おそろし
042 曼殊沙華目をやるたびに殖えてゐる
052 月光に鎖鳴らして象老いぬ
056 鑿入れて樟の香走る冬初
064 虚を摑むごとく置きあり革手套
084 うすらひの端は水とも光とも
120 下山して雀親しや立葵
132 地図の上の真赤な日本原爆忌
144 星なべて自壊のひかりきりぎりす(*)
159 梟に階のしまひを踏みはづす
170 寒晴や高さ貪るビルの群(*)
201 春深し木馬駆くるは地に触れず
人の命の「うつろひ」を詠んだ心象句が多いが、それらは、実は、写生がベースになっているように見える。自選句の〈ひるがほや死はただ真白な未来〉などはその代表であろう。
写生の目が効いた作品には、
084 うすらひの端は水とも光とも
がある。薄氷の端の部分が「氷とも水とも光とも」見えるのである。これは視覚上の写生だが、写生は嗅覚にも聴覚にもありえる。両方の感覚が生きている句として、
056 鑿入れて樟の香走る冬初
がある。読者にも鑿の音と樟の香りが漂ってくるはずである。
感覚的な句としては、
007 やや老いて写真館出づ罌粟の花
022 夕立にどつと亜細亜が匂ひけり
042 曼殊沙華目をやるたびに殖えてゐる
記念写真を撮った後は、なぜか齢をとったような気分になる。その微妙な感覚を詠んだ。二句目。亜細亜全体が匂うという感受は、埃っぽい土漠地帯を含む大陸を含むアジア全域にイメージを広げることで、大きな詩となった。三句目。曼殊沙華は巾着田を思えば無条件に納得できる。
自選句と重なった二句を鑑賞しよう。
144 星なべて自壊のひかりきりぎりす(*)
やや理詰めに響く句であるが、星とて命あるもの。今見える光は実はもう燃え尽きた星の残光なのかも知れない。そのことに、命短い「きりぎりす」を配した。
170 寒晴や高さ貪るビルの群(*)
飯島晴子の〈寒晴やあはれ舞妓の背の高き〉を思いだすが、ここでは「貪る」という言葉がよく出てきたと感心している。この言葉ひとつで「詩」に仕上がった。
ありがとう御座いました。
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