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島村正俳論集『現代俳句Ⅰ』

更新日:2022年4月26日




 該著は「宇宙」主宰の島村正が、俳句評論を軸に、エッセイ・俳句をまじえ、自分史を鮮明にする意味をこめて纏めた一書である。令和四年四月一日発行。


 小生は、その中から「誓子山脈の人々」と「形影相伴う師弟」の二節に興味を覚え、熟読した。「誓子山脈の人々」の節では、「天狼」を駆け抜けて行った鬼才を取り上げた。その中の一人に寺山修司がいて、小生は修司が「天狼」の門下生だとは認識していなかったので、新鮮であった。「形影相伴う師弟」では、誓子と橋本多佳子の間の相聞に焦点をあてて論じたもので、二人の間の成就せぬ恋慕の情を浮き彫りにしてくれた。

 以下に、内容を抄録しよう。


「誓子山脈の人々」(「俳句四季」平成二年十二月号より転載)

 誓子の「天狼」創刊の辞には、かの有名な「私は現下の俳句雑誌に、〈酷烈なる俳句精神〉乏しく、〈鬱然たる俳壇的権威〉なきを歎ずるが故に、それ等欠くるところを〈天狼〉に備へせしめようと思ふ」なる科白があった。その高い気概に共鳴、参集した原始同人(誓子山脈の人々)は、秋元不死男、榎本冬一郎、波止影夫、橋本多佳子、平畑静塔、孝橋謙二、三谷昭、西東三鬼、杉本幽鳥、谷野予志、高屋秋窓、山口波津女の12名であった。島村はこれら創刊同人の俳句を一句ずつ掲載している。中から好きな句を一句だけ、と言われれば、小生は次の句を選ぶであろう。

  いなびかり北よりすれば北を見る     橋本多佳子

 少し遅れて「天狼」に参加したのは、加藤かけい、永田耕衣、右城暮石、古屋秀雄、山畑禄郎、横山白虹、神田秀夫、沢木欣一、細見綾子らである。

 島村は「限られた時期の限られた誓子山脈の人々、もっといって〈天狼〉を駆け抜けて行った、韋駄天走りの鬼才、その処女句集を紹介し」たい、と言い、鷹羽狩行の『誕生』、上田五千石の『田園』、寺山修司の『花粉航海』をあげる。中から、小生が懐かしく思う作品のみを再掲しておく。

  スケートの濡れ刃携え人妻よ     鷹羽狩行

  みちのくの星入り氷柱吾に呉れよ

  天瓜粉しんじつ吾子は無一物

  萬緑や死は一弾を以て足る     上田五千石

  もがり笛風の又三郎やあーい

  渡り鳥みるみるわれの小さくなり

  母は息もて竈火創るチエホフ忌    寺山修司

  秋風やひとさし指は誰の墓

  少年のたてがみそよぐ銀河の橇

 そして島村は「三者三様の世界、就中、青春俳句を比較してみるにつけ(略)、最も若い寺山修司が一頭地を抜いていた」と高く評価している。青春俳句に限っての評価だろうが、なるほどと共感しながらも、意見の違う人もおられるだろうと、小生は感じた。それは措くこととして、島村は、修司称揚の辞を續け、『花粉航海』から10句を引いている。中から小生の好きな3句を抽出したのが、上記である。

 また、島村は修司の「母もの」にも感銘を覚えており、下記の3句を挙げている。

  花売車どこへ押せども母貧し     修司

  ひらがなで母をだまさむ旅人草

  寒雀ノラならぬ母創りし火

 久しぶりに修司の懐かしい句を読んで、小生もその青春性に感動を新たにした。彼の句を読み耽けていた頃が懐かしい。

 寺山修司といえばその模倣癖についても論じられるべきであろうが、島村は「当時の俳壇が、模倣俳句の一語で一蹴されたことは実にさもしいことであった」と弁護している。


 さらに島村は鷹羽や上田が兄事した堀井春一郎について述べる。特に堀井が誓子の元を離れるに至った点について「春一郎は(誓子を)卒業してしまった寂しさに耐えねばならなかった」としている。

  悲しさの極みに誰か枯木折る      誓子

  枯木折る誓子一辺倒を経て      春一郎



「形影相伴う師弟」(初出不詳)

 この節のはじめに島村は、山口誓子が『橋本多佳子句集』の解説に「この作家は、人間としてわかりにくいところがある」と書いているとして、論を進めている。

 多佳子は昭和17年に次の句を詠んでいる。

  萬燈籠幽けしひとの歩にあはす

これは、5年前に逝去した夫橋本豊次郎を慕う句である。翌年は

  つゆじもや発つ足袋白くはきかふる

を詠んで、四日市に療養中の誓子を訪ねている。真っ白な足袋に履き替えることは多佳子の「師を訪う敬虔な気持ちと早朝に出発する気息が……」と息女の美代子が書いていることを島村は紹介している。また、多佳子のこの誓子訪問は彼女にとって特別に至福の時であったことが、

  ほのぼのと襟あたたかし石蕗も日に

  濤ひびく障子の中の秋夜かな

などで明らかであり、白子の海岸を誓子と心ゆくまで散策してできた句々を挙げて想像している。島村は一句目の「襟」足に多佳子の官能を読み取り、小生は二句目の「障子の中」に二人だけの閉鎖空間を思うのである。この時の師弟同行二人の図は、

  砂をゆく歩々の深さよ天の川

と読まれたが、のち

  七夕や髪ぬれしまま人に逢ふ

とまで昇華し、牽牛・織女の逢瀬を彷彿とさせる……と読むのは島村正の偽らざる憧憬にも似た心情であろう。

 箱根の強羅に静養中の誓子を見舞った多佳子の

  夕焼くるかの雲のもとひと待たむ

に、はやる多佳子の気持ちを感じ、多佳子の見舞いを一日千秋の思いで待った誓子には、

  いなびかり宵に愛でたる雲たてり    誓子

があることを挙げ、島村はこの句が誓子の阿吽の詠嘆である、と読み取っている。この句の「雲」は「人間のように思われた」と誓子が述懐し「人間としてわかりにくい」と多佳子を評したのは、多佳子の一面に「雲を掴むような不思議さを」感じていたからなのかもしれない。

  ひととゐて露けき星をふりかぶる

 多佳子は誓子より先に逝ってしまった。「私が多佳子さんの死を惜しむのは、多佳子さんのあと。その詩の系譜を継ぐひとがないからである」と誓子は嘆いた。

  悲しみが立てるよ奈良の雲の峰   誓子

 誓子の多佳子追悼句である。「雲」が立っているのである。


 誓子に関する島村の小論はこのほかにも見られる。


俳句の空間(「あざみ」??年三月号)

 誓子が島村正の静岡を訪れた際の記述がある。小生は、賤機(しずはた)が静岡の旧称であることを。ここで始めて知った。

  賤機のげんげ田織の途中なる    誓子


富士山と誓子(「俳壇」??年六月号)

 島村正にとって富士山が特別な山であることは、富士に係わる句集があることでも知られていることであるが、師の誓子もそうであったようだ。富士に係わる句が極めて多い。

  下界まで断崖富士の壁に立つ    誓子


 上田五千石に関する小論も関心を引いた。

水鏡(「畦」昭和56年5月号)

 紫陽花の季節になると島村は菱田春草の絵と上田五千石の「水鏡」を思い出すという。

  水鏡してあぢさゐのけふの色   五千石

 論旨は五千石が如何に誓子に傾倒していたかを述べるものである。

  ゆびさして寒星一つづつ生かす  五千石

  露けき身いかなる星の司どる    誓子

  外寝して星の運行司る      五千石

  満天の星を戴き野宿する       正

 島村正の句は、伊豆の踊子を追体験する旅を試みたときの作である。

 さらに師誓子と弟子五千石の句を挙げて、五千石が如何に師の影響下にあったかを述べている。

  つきぬけて天上の紺曼殊沙華    誓子

  雲割って先駆の光つばくらめ   五千石

  清水飲むつつがの胸の板濡らし   誓子

  啓示乞ふ泉の面にくちづけて   五千石

  無花果のゆたかに實る水の上    誓子

  濁流のしぶくところに栗の花   五千石

  

 該著は、これ以外にも次のような諸氏の句集に係わる島村の評をも載せている。此処では一句づつ掲げておこう。


『青嶺』   八木斌月  山口誓子門

  天日は鏡の如し風邪癒えず     斌月

『化粧匳』  東 良子  飯田龍太門

  きっぱりと青空に咲く辛夷かな   良子

『青蓮』   笹野俊子  山口誓子門

  大粒の雨結界の蓮を打つ      俊子

『風信』   島村 久 水原秋櫻子門

  田植機の拗ねて動かぬ雨の中     久

『炎天』  志賀白雲子  山口誓子門

  炎天をすこし濡らして氷挽く   白雲子

『七夕の湖』 東 良子  飯田龍太・島村 正門

  七夕の朝の汀に歩を合はす     良子

『太平洋』 志賀白雲子  山口誓子門

  花吹雪浴びて一切忘れたし    白雲子

『優遊』  勝又小夜   島村 正門

  遍路杖突きて遍路が起ち上がる   小夜

『春の葱』 平澤陽子  上田五千石門

  涼しさのほどを過ぎたる火口底   陽子

『銀座』  森 玲子   多田 裕など

  五月雨の地上も地下も銀座かな   玲子

『みろく』 田中 暁   鷹羽狩行門

  それぞれの島の形に淑気満つ     暁


 誓子に深く学び、影響を受けている島村正の俳句小論集といえる該著『現代俳句Ⅰ』を読ませて戴き、俳句の系譜の絶えざる流れに改めて敬意を表している。

 

 有難う御座いました。

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