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松井国央句集『流寓』

  • ht-kurib
  • 2022年3月6日
  • 読了時間: 6分




 松井国央(くにひろ)さんは「山河」の前代表(現代表は山本敏倖さん)。この句集(令和四年二月二十三日、山河俳句会発行)は氏の第三句集。

 高野公一さんのまえがきによれば、松井さんが俳句を始めたのが高校時代だとあるから、もう六十五年以上になる。そしてその作品の特徴を、こう書いている……自分のまわりにある外界の様々な存在・現象がこの人の俳句の中で把握される時、それは慣れ親しんだ表情を捨てて何か違った光の中に立ち現れる……。

 あとがきでは「道楽の域を出ない」と書き、「役職や代表を辞し」「多くの句友と共に俳句を通してひたすら楽しんでいくことに専念する」とある。自適の句集である。

 『流寓』を一読すると、結構難解な句に遭遇する。超難解というわけではない。イメージの重層性、深遠さを感じるのだが、それを私の言葉ではうまく説明できない句が少ないながらもあるのである。きっと若いころ俳壇を風靡した前衛俳句の良い面の記憶が働いているのかも知れない。

 とにかく単純な有季定型ではない。もちろん理解できる句が多く、しかも気に入った句が、次の通り多数におよんだ。


007 明後日が今ありそうないぬふぐり

011 夕桜遠回りして来る鐘の音

014 風鈴が上手に鳴って向島

015 白鷺の居るというより在る如し

019 真相は幾つもあって梅実る

019 信仰の糸口にある蟾蜍

020 鮎すしの頭のほうにある信濃

022 水洗いして大根を無罪とす

030 竹箒あるべきところにあって冬

031 湯豆腐を掬いて今が懐かしい

036 いつも在りいつも唐突雪の富士

048 事件事故どちらでもない金魚の死

053 崩さねば夢を見ている冷奴

055 花の野に立ち両耳がばかに暇

055 サルビアの沢山あって退屈す

059 断片が祖母のすべてや赤まんま

060 秋の海必然性のない一歩

061 どこからも正面にある雪の富士

063 わたくしがどこにもいない大枯野

063 身に入むや右手が握る左の手

064 失うもの無いと言い得ず冬の蝶

071 冬の雁光の中に隠れたり

074 丸腰で戦後七十年目のさくら

078 鷗みな風上向いており遅日

078 春風の去って動機のない一歩

078 春の雷正義感こそ少し邪魔

079 初蝶の天より剥がれ来て大和

080 花疲れ汚れていない手を洗う

084 パセリ食み次の涙をきれいにす

085 夏薊そこだけ時を入れ替える

086 香水や僅かに無くす平衡感

091 今以前無くして軽し赤とんぼ

099 遠き飢え初めにこげる鰯の尾

107 春めける浮桟橋のはずれから

109 菜の花や言葉以前に立ち戻る

113 糸トンボ昨日のようで今日のよう

115 滝の音浴び右肩に荷を移す

118 生かされてしまう時代や桐の花

124 意図のない一歩を散歩として涼し

127 戯れに打つ音澄めり皿小鉢


 冒頭に「難解な句がある」と書いたが、その中に、平易で俳句の中道を行くごとき伝統派的な作品も見られる。私はそれらにも魅力を感じているので、まず掲げておく。

011 夕桜遠回りして来る鐘の音

015 白鷺の居るというより在る如し

061 どこからも正面にある雪の富士

071 冬の雁光の中に隠れたり

078 鷗みな風上向いており遅日

127 戯れに打つ音澄めり皿小鉢


 この句集の不思議な魅力の一つに、「今」を中心として、未来と過去の輻輳心理が詩的に表出されている作品がある。それらは

007 明後日が今ありそうないぬふぐり

031 湯豆腐を掬いて今が懐かしい

091 今以前無くして軽し赤とんぼ

109 菜の花や言葉以前に立ち戻る

113 糸トンボ昨日のようで今日のよう

などの句である。これらに私は模糊とした、しかし確かにあり得るなあと思わされるような感覚的な魅力を覚えるのである。「今」とは一体どういう時間なのだろうかと、自問し、つくづく「今」の不思議さを思うのである。


 次にあげるのは言葉の選択が見事だと、私が思った句群である。

014 風鈴が上手に鳴って向島

030 竹箒あるべきところにあって冬

048 事件事故どちらでもない金魚の死

055 花の野に立ち両耳がばかに暇

074 丸腰で戦後七十年目のさくら

078 春風の去って動機のない一歩

124 意図のない一歩を散歩として涼し

 風鈴が「上手に」鳴るとは、なかなか言えない。しかもこの句「向島」の地名が実に良く効いている。二句目では「あるべきところにあって」が面白い。この具体的でない言い方に十一音も使ってしまって、どうなるかと心配するのだが、結果は竹箒の状況を不足なく言い表わしている。三句目の「どちらでもない」、四句目の「ばかに」などは、なかなか俳句では使いにくい。五句目、「丸腰」も力がないと使えない措辞である。それらを見事に使いこなした。「動機のない」「意図のない」もその通りである。


 この句集には、前衛俳句時代を超えてきた俳人の深層に残っているような「俳諧味志向」を感じさせてくれる作品がある。ひょっとして「前衛俳句時代を超えてきた」という言い方は適切ではないかも知れないが、松井さんの平易な表現の諧謔性・俳味の中に、エスプリ、アイロニー、批判性といった強い作句意思が感じとれるので、私はそう思ったのである。

019 信仰の糸口にある蟾蜍

020 鮎すしの頭のほうにある信濃

022 水洗いして大根を無罪とす

053 崩さねば夢を見ている冷奴

055 サルビアの沢山あって退屈す

063 身に入むや右手が握る左の手

078 春の雷正義感こそ少し邪魔

080 花疲れ汚れていない手を洗う


 最後に私の特に気に入った句を鑑賞しよう。


019 真相は幾つもあって梅実る

048 事件事故どちらでもない金魚の死

 私たちは、身の回りに起こる現象の一部だけを見て原因をこと上げする。これが「真実」だとか言って世上を騒がせる。しかし自然の成り行きは人知を超えている。心地よい諦観にも似た句である。いかにも俳句的。


059 断片が祖母のすべてや赤まんま

 記憶が薄れた祖母を詠んだ。自分の記憶がほんの断片に過ぎないということに祖母は気が付かない。だから残っている断片が彼女のすべてなのだ。それ以外には何もないのだ。そのことに、道端に生えている素朴な秋の花を取り合わせた。


061 どこからも正面にある雪の富士

 まさに言い得ている。これは対象(ここでは富士山)から一歩引いて、全体を見渡してから初めて言えることである。何となく軽い批判性も感じる。


074 丸腰で戦後七十年目のさくら

 先にも書いたが「丸腰」がなかなか出てこない。社会性俳句的でもある。そこに「さくら」を斡旋した。松井さんの俳句作品は実に複眼的である。


084 パセリ食み次の涙をきれいにす

 抒情性ゆたかな句。この句集には珍しいタイプだと私は思った。好きな句です。


118 生かされてしまう時代や桐の花

 これも074と同じく社会性のある句。終末期の患者を思った。現代の医療の在り方への批判であろうか。ただし、これは私の誤読かもしれないので、こうも読める、という言い方に留めておきます。答えは「桐の花」にあるのだろうが、この「桐の花」を、浅学の私は読み切れていない。とまれ、桐の花が「家紋」を連想させるので、読みが広がる。


124 意図のない一歩を散歩として涼し

 松井さんの近況であろうか。道楽としての俳句を掌中に収める「余裕」を感じた。


 自適の句集、有難う御座いました。

 
 
 

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