縁があって、松林さんから該著(2021年11月12日、鳥影社発行)を戴いた。俳論の多い氏は、実は詩人でもあられる。句集、詩集ともに三冊ずつ、俳句評論は十数冊に及ぶ。小生は、前衛俳句について書く際に、松林さんの初期の評論『古典と正統』を、大いに参考にさせていただいたものである。
『詩歌往還 遠ざかる戦後』は詩歌全般にわたる大部なものであるが、その中に、小生にとって、興味あるエッセイ風の項を見つけた。「浪漫の詩人―杉田久女頌」である。
小生はこの著書に出会う前日に、知人から「りんどう」650号記念誌を贈られ、その表紙の杉田久女の流麗な短冊に見とれ、久女の孫の石太郎氏の久女に係わる寄稿を読んだばかりであった。しかも、この「りんどう」には著名な俳人が大勢祝句を寄せていた。その中に松林尚志氏のものもあった。小生は、氏が幅広くご活躍なことに感心したのだったが、今回この『詩歌往還』の久女の項を読んで、「りんどう」「松林氏」「久女」の関係に納得がいったのであった。つまり、松本市という地縁と俳縁が齎す人と人とのつながりなのである。
久女は鹿児島で生まれ、那覇、台北などを経て13歳のとき上京し御茶水高女に入っている。結婚の相手杉田宇内は素封家の出の美術の教師であり、酒も煙草もやらない善良な市民であった。しかし久女は、上昇志向の強い芸術家タイプで、松林は彼女を「浪漫的資質」の持ち主と呼んでいる。師と仰ぐ虚子は写生主義であり、反ロマン的指向である。むしろ久女のロマン的傾向は秋櫻子に近いといえよう、とこれも松林氏の言。久女は初の句集の序文を虚子に懇願したのだが、虚子は書かない。師への一途の思いも、弟子に対して等距離な関係を守りたいとする虚子には、煩わしいだけのものとなった。草城、禅寺洞とともに「ホトトギス」除籍宣告を受ける。俳句界から抹殺されたのである。
松林はこう書いている。
久女が焦燥にもにて以て性急に栄光を求めたことは、現実の抑制が強かったこともあ
るかもしれないし、人の上に立たずにはおれない性格的な負けん気、気性の激しさとい
ったものもあるかもしれない。しかし、久女には自ら溢れ出る才質への自負もあったで
あろう。それを世間に認めさせるのに急であり過ぎたということであろう。
(略)私は久女の『花衣』創刊の辞を読んで久女が一気に身近な人となったことを述
べた。一銭にもならない芸術に憑かれて周囲からつまはじきされながらなおかつ芸術に
すがらねばおれなかった久女の姿には何か身につまされるものがある。
久女の父が松本藩の士族であった縁から、のち城山に久女の句碑が立つことになったようだ。大正七年、父が死亡し、九年に久女は城山墓地への納骨のため松本を訪れている。この城山は松林氏の故郷そのものといっても良い、とある。城山から見下ろすすぐ下に彼の学んだ小学校があるそうだ。生家の木立も見える、とある。
地縁と俳縁は、相まって、愛おしい思いを育ててくれるもののようだ。
『詩歌往還』にはほかにも貴重な論が収められており、別の機会にまたブログに取り上げたいと思っている。
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