松野さんの第三句集。角川文化振興財団、2022年4月15日発行。彼女は、「街」(今井聖主宰)の同人会長で、2016年に角川俳句賞を貰っている。俳歴50年ほどで、2009年から21年にっけての作品を収めている。
自選句は次の10句。
春の日や歩きて遠き船を抜く
帽子屋に汽笛の届く春の暮
桜ふぶき人のかたちを消してゆく
出目金のいつもどきどきしてをりぬ
手に載せて臍の緒の色空蝉は
礼状に桃描く桃の香の中に
数へるとすぐ散る雀原爆忌
鰤の血の流るる夜のステンレス
鍋焼の湯気トロフィーの曲線に
凍滝の全長光る木霊かな
松野さんとは「街」の句会でときどきご一緒するので、懐かしい作品が多かった。小生の共感句は次の通り多数におよんだのも、そのせいであろう。就中、言葉の選択に長けた佳句が多く、絞るのに苦労が要った。(*)印は自選句と重なったもの。
011 潮騒を聞いて二日目燕の子
014 横須賀海軍施設
基地に蟻潜水艦の上に人
019 東京も倫敦も雨漱石忌
020 地下室の窓を行く足クリスマス
029 ガーベラや厚き手紙の恐ろしき
036 折鶴は角が命や雪激し
042 仔馬いま脚Xに立ち上がる
047 パソコンを消すやバナナの匂ひたる
057 摘草のときどき横の姉を見て
066 コスモスの隙間の空気くすぐつたい
068 屛風絵の鯨の上の人の数
076 息子ゐて夫ゐてバレンタインデー
081 十字架に烏のとまる大暑かな
083 表からあがれと言はる祭髪
089 冬木立荷物持つ手の長くなる
091 雪積るだんだん耳の遠くなり
093 オルガンの煙のやうな音長閑
094 春の日や歩きて遠き船を抜く(*)
095 帽子屋に汽笛の届く春の暮(*)
101 出目金のいつもどきどきしてをりぬ(*)
112 家出たき頃の匂ひの毛布かな
118 箸置の小鳥を並べ雛祭
119 雉鳴いて枕が二つ干してある
122 指入れて指長くなる泉かな
123 蛇のあと水に模様のあらはるる
125 女らのナイフのやうな水着かな
127 割れ石榴暇さうに雨降つてゐる。
129 朝寒や卵を割りて殻に角
130 自転車の来て体操す冬の川
132 初夢の父はうなづくばかりなり
138 西念寺(服部半蔵開基)
半蔵の墓に雀に花の雨
142 蘭鋳にやたら詳しき転校生
161 よく動く遺品の中の金魚かな
164 らふそくを点け滝音の冥くなる
169 来し方や東京タワーに月刺さり
172 枯野来る着物の母が我連れて
175 喉とほる牡蠣に浮きたる体かな
182 天道虫とまり背中の広くなる
183 寂寞の砂丘は女体日の盛
184 天の川手を洗ふたびこの世減る
185 礼状に桃描く桃の香の中に(*)
192 嚏してしばらく手足遠くなる
幾つかの作品を取り上げて、鑑賞を書いてみたい。
014 横須賀海軍施設
基地に蟻潜水艦の上に人
068 屛風絵の鯨の上の人の数
014は、作者が、狭い艦上にならぶ水兵を、横須賀港で実際に見たのであろうが、報道写真などでもよく見かける。蟻との対比で俳句となった。068の方は、何処かで小生も見たような気がしている。記憶が確かでなくて申し訳ないのだが、とにかく、伝統的な鯨捕りの絵図で、人海戦術の様が分るものだった。二句に通底するアナロジーが面白かった。
020 地下室の窓を行く足クリスマス
日本では珍しいかもしれないが、外国の都会のビルにはよく半地下の住居や店がある。そこに座ると、窓の外を通る人々の脚がやや上向きの目線に入るのだ。クリスマスのものとすぐ分かる買い物を提げて、家路に急いでいるのかも。中には子供連れもいたであろう。
047 パソコンを消すやバナナの匂ひたる
因果関係がある訳ではない。二つの事象のただ一瞬を詠った。そこに俳句的な面白さを小生は感じ取った。
089 冬木立荷物持つ手の長くなる
091 雪積るだんだん耳の遠くなり
164 らふそくを点け滝音の冥くなる
175 喉とほる牡蠣に浮きたる体かな
192 嚏してしばらく手足遠くなる
これらの句は、何かを行ったときから身体のどこかに変化が現れるという微妙な「身体感覚」を詠ったもの。しかも、読んで「そうだそうだ」と思い当たるのである。これも松野さんの立派な句材の一つである。091については、雪国育ちの小生には、雪の夜は決まって物の音が静かで、耳が遠くなったような感覚を覚えるのである。聞こえる音は普段より柔らかいのである。
094 春の日や歩きて遠き船を抜く(*)
沖に船が見える。動いているはずだ。波止場を人が歩いている。そのような場面を想定しながら、その景を少し離れて俯瞰するように見るとよく分かる。近景と遠景の視覚的な「ずれ」みたいなものである。こんなことが見事な句になる、ということを教えられた。
095 帽子屋に汽笛の届く春の暮(*)
小生イチオシの句。港に近いお洒落な帽子屋。春向きの帽子を選びながら決めかねているのかも知れない。ふと汽笛が鳴った。外国航路の旅客船だろうか? 旅への心が膨らむ。
119 雉鳴いて枕が二つ干してある
129 朝寒や卵を割りて殻に角
一見ただごと俳句的である。断っておくが、小生は「ただごと俳句」という言葉を憧憬の念を持って使っている。俳句の本領は「ただごと」だと大げさに言う積りはないが、妙な魅力があるのだ。平明な中になにか教えられるものがあるのだ。後藤夜半の〈滝の上に水現れて落ちにけり〉、加藤郁乎の〈冬の波冬の波止場に來て返す〉の味である。この二句は普遍性を詠んだものだが、129は些事ながらそれに近く、119は逆に偶然性をこと挙げしながら、田園のゆったりとした常なる景を詠んでいるのである。
125 女らのナイフのやうな水着かな
「ナイフのやうな」に恐れ入った。これに影響されて小生も類似の句を作ったものだった。面白い句は他人の句作にも影響を与える。
138 西念寺(服部半蔵開基)
半蔵の墓に雀に花の雨
「半蔵」に意外性がある。自信はないが、俳人協会主催の「花と緑の吟行大会」で、特選に選ばれた句ではなかったろうか。会場が新宿御苑で、当日はあいにくの雨で、まさに「花に雨」の日だった。西念寺も近いところにある。違ったらごめんなさい。
161 よく動く遺品の中の金魚かな
遺品に金魚とは! 軽い驚きが手柄。うまい! 御母堂が飼っていた金魚なのだ。金魚を身内のような気分で見ているのだろう。
存分に楽しませて戴きました。
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