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柳生正名著『兜太再見』(その1)



 

 柳生氏は兜太に深く心酔し敬愛した門下生で、「海程」賞や現代俳句協会評論賞を受賞している。この著は、株式会社ウエップから、2022年2月28日に発行された。

 兜太に関する評論は多い。小生もわずかな記事を書いたが、最近では、井口時男氏の『金子兜太―俳句を生きた表現者』が兜太論では出色の著であったと思っている。この件は、

を参照願いたい。

 この柳生氏の『兜太再見』は兜太の人生に焦点を当てるよりも、むしろ兜太の存在の特質を兜太の「言葉」から論じて行こうとするものである。具体的には俳句における「漢語」と「やまと言葉」と口語的切字としての「た」の働きに関する論考である。それらは世界最短定型詩である俳句が日本語という個性的な言語のゆえに生まれたという必然性を持っている……とのいわばドンキホーテ的大仰さをおびた論考でもある、と柳生氏自身がいう。


序章

 記述は、比叡山での「海程」の勉強会風景から始まる。1200年もの間、灯が一度も絶えないという根本中堂の薬師如来の内陣の朝の法会。重々しく僧たちがあらわれ、座に就くとほぼ同時に、いつもは朝寝坊のはずの兜太が現れた。「まっぴらごめんなすって」がそのときのセリフと仕草であった。義民ややくざへの親しみを、このとき柳生氏は感じた。そしてそこに兜太の一貫した「やんちゃぶり」を感じ取り、「現状を一瞬で流動化させ、空気を一変するファンタジスタ的言動は枚挙にいとまがない」と、以下の論考を進める。


第一章 おおかみ的なものをめぐって

 この書の題名の「再見」とは、また会いましょうというほかに、二度と生きて会うことのできない別離の挨拶でもある。柳生氏は永年、兜太の生身の謦咳に接し、その奥深い多面的な魅力に直接交わった記憶の中での再会を願い、この書を書きだした。それは、

  おおかみに螢が一つ付いていた

の「いた」の「た」に係わる論考から始まる。詳細は第二章になるが、この「た」は小生などには、口語表記の「いる」の過去形の「いた」の語尾にすぎない、と見過ごしてしまう。だが柳生氏は、ここに口語の俳句における意味と「た」の切字効果を感じ取り、縷々述べるのである。

 さて、この句、大人気の句であり、平成期の俳句を代表するものである。冬の季語「狼」と夏の季語「螢」の取り合わせは、狼を「時間を超越」して生きる存在者であるとする兜太からすると、まさに季語季題を超越した作品である。季重なりを条件反射的に受け入れない俳人は、美しい日本に「季重なり」でしか表現できない何かが存在することを知らないで過ごしてしまうであろう。この句は、口語とか切字とかの以外に、季重なりを肯定する、といった大きな意味を持つ句なのだと知る。そしてまた、この句は〈梅咲いて庭中に青鮫が来ている〉と同様、兜太の「産土」「アニミズム」「生き物感覚」を具現する名句なのである。


第二章 生きもの感覚の「た」

 この章では「た」に触れる前に、『東国抄』の「狼」連作20句を振り返り、秩父と狼の地縁を述べ、狼と暮らした哲学者ローランズや、ハイデガー、サルトルなどを引用し、人間中心主義や実存主義の克服を述べ、「兜太は自らの肉体で戦争を知る立場から、実存主義的人間中心主義に対し、常に肯定と否定のないまぜの二律背反な立場に身を置いた」「兜太が〈存在者〉を語るとき、そこに浮かび上がるのはハイデガーやサルトルが想定した知的エリートたるものの存在ではなく、彼が〈非本来的な自己〉〈即自存在〉としておとしめた動物的で日常性に埋没した存在者への共感のように思える」「本来における自身の死の自覚から〈実存〉を照らすハイテガーらと一線を画し、今は今の生のみ、という〈生きもの〉のまなざしこそ、兜太のオオカミが生きる〈無時間〉の本質ではないか」「客観写生や花鳥諷詠論は自然尊重を謳いつつ、その実、〈写生〉〈諷詠〉という言葉が本質的にはらむ自然/人間の二項対立を前提とする。人間の眼を通した自然という構図から逃れられず、しばしば人間中心主義のわなから脱しきれない。〈有季〉への過度の執着も今を〈季のめぐり〉という時間性の中で捉え、瞬間にはじける命のあるがままに没入しきれないことの表れというにほかない。兜太が〈生き物感覚〉という言葉で提起したのは、こうした潮流へのアンチテーゼとしての〈生きもの中心主義〉〈生きもの諷詠〉であった」などと論じる。

 いよいよ「た」論に入る。

  おおかみに螢が一つ付いていた

 句末の「た」は「けり」「かな」などに匹敵する「切字」の機能を果たしている。単なる過去を示す助動詞ではなく、作者が生きる今にすべてを集約させる切字としての力がある。文語の「たり」を起源に、口語として使われ、言文一致運動の過程で文章語となった。

 「た」止めの名句が伝統俳句派から生まれることがなかったのも頷ける。だが、似通った用法が〈我やうにどさりと寝たよ菊の花 一茶〉にあり、この「寝たよ」が現代口語そのままの文体で、一茶と花の間の親密感やアニミズム的な「ふたりごころ」を表現している。

 「た」は、切字の役割だけでも十分大きな役割だが、そのほかに、口語俳句という大きなジャンル形成に役立ち、しかも、アニミズム、「ふたりごころ」まで、柳生氏の説明が広がっていくことに、読んでいて、小生は興奮を覚えたのであった。

 兜太の語る「生きもの感覚」、わけてもその瞬間に立ち上がる世界に向けたまなざしのうちには、芭蕉、子規に通じる世界の存在、大きな文学史的な流れの中での連続性が感じられる。それが兜太俳句のうちには、たとえば「た」という言葉の切字的な用法を通じて顕在化していると受けとめることができるのではないか、と柳生氏は結論する。


第三章 兜太と草田男の文体論から

 ここでは、「漢語」と「やまと言葉」の違いについて、兜太と草田男を引き合いに出して、まず述べる。次の句を草田男が添削した事件から始まる。

  弯(ママ)曲し火傷し爆心地のマラソン       兜太

  爛(ただ)れて撚(ねじ)れて爆心当なきマラソン群  草田男添削

 添削した理由を柳生は、草田男が ①漢語(彎曲、火傷、爆心)の多さ ②無季句である ことが気に入らなかったのだろうと解析する。しかし、草田男は兜太の無季句を有季化してはいない。むしろ「爆心」を季語にとって代わり得る詩語として認めている(草田男自身も無季句を作っているから許した、とも書かれているが、小生は必ずしも同じ見方はしていない。それはさておき、草田男が無季句を作っていた、というのは知らなかった。また草田男と兜太の季語などをめぐる激烈な書簡のやり取りについては「現代俳句」2018年12月号の拙稿に詳しく書いた)。

 漢語については、漢語が思想や抽象的な想念を表わすのに適しているがゆえに草田男自身も良く使っていた、とある。これはよく分かる。しかし、一句に二個三個出てくる文体は草田男の好みではない。したがって、左のように手直ししたのであろう、と柳生氏は推論している。この見方については同感である。

 柳生氏はさらに「漢語」と「やまと言葉」の基本的な差異について、虚子の例をも引いて論じている。和歌の流れをくむ「やまと言葉」は、花鳥を、情念を込めて諷詠するのに適している。一方、「漢語」は、抽象性のある思念を書くのに適している。したがって、社会性俳句や前衛俳句は、伝統派の作品に比して漢語が多い。漢語なしに社会性俳句は成り立たないほどである。ここで余談を少し……一つ思い起こしておきたいことは、連歌から俳諧の連句が生まれた頃、それまでの殿上人の優雅な和歌に、漢語、俗語、話し言葉を広く詠み込むのが地下人の連句であったという事実である。漢語を多用し始めたのは、現代俳句のはるか以前であったと思うのは間違いだろうか? また、「やまと言葉」に拘るホトトギス派に社会性俳句を詠まれる余地はほとんどなかった、としているが、小生の目からは、草田男は結構社会性俳句に近い作品を発表していると思うのだが、それは例外的なのだろう。それがゆえに草田男は、小野蕪子やホトトギスの重鎮たちから異端視されていた面もあった筈である。

 柳生氏は兜太の作品を丁寧に解析し、漢語の多用以外に、助詞「てにをは」や助動詞の使用を最小限に抑えたスタイルが前期の兜太の特徴だとしている。同感である。

 最後に柳生氏は、

  おおかみに螢が一つ付いていた  後半の代表句

  彎曲し火傷し爆心地のマラソン  前半の代表句

の二つの句について、漢語が全く使われていない「おおかみ」の句と、多用されている「彎曲し」の句の両極端が存在していることを、「自身のうちの正反対の〈異端〉が自らを代表する、という俳人として極めて特異な存在の仕方を兜太はしている」「さまざまな多様性を包み込み、束ねる〈存在者〉としての魅力の本質がある」と称賛している。

 この見方に納得するものであるが、このことは文体(漢語かやまと言葉か)がどうであれ、名句は名句であり、どちらにも沢山の名句があり得るだという当たり前の結論になってしまいはしないだろうか。


第四章 〈漢語〉の造型性と思想性

 この章も「漢語」の俳句における働きの特徴を前衛俳句との関わりで説明している。

  人体冷えて東北白い花盛り   金子兜太  の「人体」

  塩田に百日筋目つけ通し    沢木欣一  の「塩田」

  白川村夕霧すでに湖底めく  能村登四郎  の「湖底」

などである。敢えてこのように指摘されるまで、「漢語」だという意識を少なくとも小生は感じていなかった。柳生氏は前衛俳句に多く用いられる「漢語」が難解性の元になっているとも指摘するが、隠喩性に富んだ漢語が「前衛性」を演出する原動力だった、ともいう。社会性俳句にしても同じである。これらは、漢語の積極的な使用による和歌的情緒からの決別志向を示すものである、という。

 話題は漢語に潜む政治性へと展開する。自治体の公民館だよりから発展した〈梅雨空に「九条守れ」の女性デモ〉騒動である。この「九条」「女性」が漢語で、「デモ」が外来語だからである。小生などは、違和感を覚えないのだが、言われて見れば確かに漢語であり、外来語である。「やまと言葉」とは違った味がある。この句がもめたのは、その政治性なのだが、その要因は「漢語」の齎す政治的堅さにある、と柳生氏はいう。

 新興俳句にも多くの漢語が使われた。「戦争」「銃後」「墓碑」「憲兵」「鉄鎖」などである。これらが兜太らによって、戦後の「社会性俳句」「前衛俳句」へと継承された。


第五章 兜太変節論と虚子の非虚子

 第五章は、やはり「漢語」「やまと言葉」を指標として、兜太の変節と虚子の文体について書かれている。

 兜太が前期の社会性俳句や前衛俳句時代に「漢語」(外来語を含む)を一句当り1・54個使っているのに対し、後期の「衆の詩」を志した時代では0・88と下がっている。その間に兜太の変節があったという見方がなされているが、後期のごく初めの(社会性や造形論に基づく前衛華やかな)時期は2ほどに高まっている。柳生氏は、質的な変化はあって当然だが、変節や断層があったとは認めない。

 「漢語」と「やまと言葉」を指標に作品の志向する方向を分析するやり方は、面白い着想である。そう認めながらも、母集団の句が『金子兜太 自選自解99句』だけなのは惜しい気がする。全句集の全句を腑分けしたならばどんな結果が出てくるのだろうか、興味がある。

 このあと、虚子が「漢語」を使った例句などを解析しながら、虚子自身の「非虚子」性をも論じている。

 結論的に……虚子が「深は真なり」の一意専心、つまり自己規定の「深さ」のうちに膨大な広がりに至る道を先ず求めたのに対し、兜太はより広く自己を開放する「広さ」から俳句の深淵に繋がる途を第一に希求した。それは代表作のレベルで〈やまと言葉〉に重点を置いた虚子と、漢語/やまと言葉の双方を差別なしに、幅広く用いた兜太という文体的な特徴な差異にも通じる……と結論している。

 この結論を肯定しながらも、小生は、漢語/やまと言葉の指標だけでこの結論を出すのは、多少牽強付会の気味がないでもない、と漠然と思っている。ともあれ、ある日小生は、兜太がむかし広島駅で詠んだ、次の句

 霧の車窓を広島馳せ過ぐ女声を挙げ   『少年』

の「女声を」を、「おんなこえを」ではなく、兜太が「じょせいを」と漢語読みしたことを印象的に思ったものだった(平成28年7月25日の朝日新聞社の兜太講演会)。この女はいわゆる夜の女で、その顔面にはケロイドが残っていた、と覚えている。すさまじいまでの社会性俳句である。これは余談でした。


 少し長くなったので、第六章以下は次のブログ記事にアップ致します。




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