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武馬久仁裕著『俳句の深読み』




 武馬さんの俳句関係の著作は十数冊に及ぶ。この『俳句の深読み』は、俳句に関する20数篇のエッセイから成っている(黎明書房、2021年10月10日発行)。俳句における言葉遣いについての論が多い。「漢字、ひらかな、カタカナ」、「上にある言葉は大きい」、「重ね言葉」などに係わる小論である。すべてを読み終わったわけではないが、興味を覚えた項から感想を書いておきたい。


 まず手始めに、「重ね言葉」(42頁)の論をご紹介しよう。

  蜩鳴く鎌倉を鎌倉に移り     荻原井泉水  昭和4年

 武馬さんがこの句にであったのは、師の小川双々子が新聞に紹介してくれていたからであったそうだ。良い句だとは思ったのだが、その良さ(力)がこの句のどこにあるのかが、武馬さんの長年の疑問だった。

 その鍵を見つけたのは、武馬さんが芭蕉の次の句に出会ったときだった。

  京にても京なつかしやほとゝぎす    芭蕉  元禄三年

 同じ言葉(鎌倉と京)が二度出て来て、背後に鳴き声(蜩と時鳥)が聞こえる。簡単なことに気が付いた。最初の「京」と後ろの「京」は字面が同じでも意味の違う「京」なのだと・・・。先の「京」は現実の京都の町であり、後の「京」はイメージとしての「京」だと。私の言葉でいえば、フィジカルな京都と文化や歴史一切を総合した記憶の「京の都」なのであろう。「ほとゝぎす」が記憶の「京」を美しく飾っているのである。仏の世界を厳かに、美しく飾ることを、武馬さんは、広く世界を美しく飾るという意味の「荘厳(しょうごん)」する、という言葉を用いて称揚している。井泉水の鎌倉の句にも同じことが言える。最初の「鎌倉」は現実の鎌倉の佇まいを指し、後の「鎌倉」は中世古都としての「鎌倉」である。今の鎌倉に鳴く「蜩」が、源氏三代や北条の「鎌倉」をいわゆる「荘厳」しているのである。

 ここで個人的な疑問だが、

  蜩鳴く鎌倉をかまくらに移り  や  ひぐらしの鎌倉はもうかまくらに

などいろいろやり方があろうか、思った。愚問を許されたい。

 ところで武馬さんは井泉水の「鎌倉」の句を丁寧にしらべ、三行書き

   ひぐらし鳴き

   かまくらを

   かまくらに移り

の表記を発見した。ひらがな表記の面白さもある。これについて、武馬さんは、「『かまくら』とひらがなにしますと、最初から『鎌倉』でない『かまくら』が現れ、句の非現実性が色濃くなります。どこにもない「かまくら」が現れるからです。(念のために申し添えますが、一句の中にひらがなで書かれた『かまくら』は、『鎌倉』を単にひらがなで書いただけのものではありません)

 ついで、私も面白く読ませて戴いた塩見恵介の句集『隣の駅が見える駅』にも重ね言葉があることを、武馬さんは取り上げる。

  大声の友も大声風薫る      塩見恵介

  また手紙くれよと手紙書いて月

  燕来る隣の駅が見える駅

それぞれの句の最初の「大声」「手紙」は次に来る「大声」「手紙」を強調し、本当に心のこもった「大声」「手紙」となって、読者の胸にひびくのです、と武馬さんは解説している。

 三句目の「駅」もそれぞれ中身が違う。二つ目の「駅」は最初の「駅」の効果で特別な「駅」として、読者の心にひびくはずであるという。

 「重ね言葉」が持つ単なるレトリック以上の意味・効果を納得した次第でる。


もう一つ、小生は「AIと名句の誕生」(一二七頁)「芭蕉とAI一茶くんの俳句の優劣」(一四〇頁)の項に惹かれた。氏は「世に名句と言われるものは、生れたときから名句であるわけではない」「歴史的に見て、優れた読者の優れた読み(意味づけ)によって名句は名句になる」といい、「俳句作りに特化されたエキスパートAIであっても、名句それ自体を生み出すことはできない」「AIの作った俳句が名句かどうかは、ひとえに選と読み(その俳句の意味付け)にかかっている」としている。

 氏がAI俳句に興味を持たれたのは、「現代俳句」2019年8月号の「解説―AI俳句とその周辺」(栗林浩著)によるらしい。嬉しいことである。ここで、AI俳句の当時の傑作句、

  かなしみの片手ひらいて渡り鳥    AI一茶くん

が出て来る。さらに北大の川村秀憲教授らが書いた『人工知能が俳句を詠む―AI一茶くんの挑戦―』を紹介している。(この書については小生の紹介文がブログにあります。7月13日 https://www.kuribayashinoblg.comの記事を参照ください)。

 次の二句のうちどちらが一茶くんの作ですか、という問いがはじめに出て来る。もう一方は芭蕉の句です。

  見送りのうしろや寂し秋の風

  病む人のうしろ姿や秋の風

さて、どちらでしょうか? ヒントは「うしろ」と「うしろ姿」との違いでしょうか。答えはここでは書きませんが、小生がこの書を読んだときは深くは考えずに素通りしてしまいました。でも、川村教授らがここでこの問題を提起し、武馬さんがそれを継承したことは、なかなかの炯眼でした。どちらが奥深い句でしょうか? AI一茶くんではこの奥深さは出せないだろうとするのが結論のようです。

                                

180頁の成書ですから、啓蒙的な俳論がまだまだありそうです。日を改めてまたご報告しましょう。

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