清水さんは「朝」「海程」の同人を経て現在「遊牧」の代表。現代俳句協会賞を受賞している。『素描』は第三句集である。2023年9月7日、本阿弥書店発行。
帯にはこの句集の題名になった〈鶏頭を素描にすれば荒野なり〉が引かれている。
自選12句は次の通り。
ぼうたんの狐雨なら母の景
深爪の男あつまる桃の花
緑夜なり孔雀啼くまではさすらい
告白も懺悔もありて寒つばき
バッハと云いブゾーニといい牡丹に芽
鍵盤にフーガのもつれ蝶の昼
一滴の海のしずくの瑠璃蜥蜴
鶏頭を素描にすれば荒野なり
白鳥の頸の辺りがデカダンス
夕ひぐらし魂函いくつ開け放ち
濫読のさびしさ青鷺と吹かれ
花文字の聖書ひらけば白夜かな
小生の感銘句は次のとおり。
007 空席のひとつ華やぐ鳥の恋
011 平城山に行きたし夜のほととぎす
016 死にゆくは祭りの中をゆくごとし
019 果樹園に月の狼来ておりぬ
025 冬の虹ふっとさびしい指かくす
028 クリスマスマーケット基督がいない
032 清音のしらうめ濁音の紅梅
037 深爪の男あつまる桃の花(*)
058 冬満月裏側きっと象通る
059 梟の夕べかんざし鳴らしゆく
061 人らみな踵失くしてかいやぐら
087 オペラ座の奈落を覗く春の夢
088 姿見に懸想のごとき蝶生る
098 麦秋の絹いちまいを風という
100 いもうとの靴をさがしに虹の裏
107 冬菫ひとりわらいの唇(くち)噛んで
128 昼寝覚死海のほとりから戻る
130 乱丁の本の中なる蟬しぐれ
134 万葉集の空を渡りて花鶏(あとり)来る
144 狐火のひとつはマグダラのマリア
149 ルーアンの大聖堂を春の夢
161 くれないの沈思ぽたぽた凌霄花
166 龍淵に潜み少女のアンクレット
174 冬鹿のなだれくる闇久女の忌
179 天山を来し初蝶のうすみどり
180 春禽の紅き眦(まなじり)兜太の忌
183 繃帯の白帆かがやく鳥の恋
186 頸に巻く絹のさびしさ復活祭
194 耳たぶを孤舟とおもう春驟雨
196 ギリシア悲劇仮面はずせば緑の夜
197 芥子摘んでいま道行のどの辺り
198 蜻蛉生る風ことごとく父の私語
204 ヴィ―ナスの腕さびしき枇杷熟るる
一読、いや三読して、かなり手応えのある句集だと感じた。さっと読んで分かる俳句ばかりに慣れてきたせいか、「もの」の写生が基本にある俳句ばかりに慣れてきたせいか、白状すれば、小生の鑑賞力を超えた作品が多かった。例を挙げれば〈060 夜の卓の前衛であり寒卵〉など。作者はこの句で何か訴えたいことがあるのだろう。思考を巡らせて、的外れであったとしても、一応の私なりの鑑賞はできる。理詰めには読みこなせなくても、この句集には、何かを感じさせてくれる句が多いことは、間違いがない。すなわち、独創的、感覚的、現代詩的な俳句が多いのである。分かりやすいということは、もはや清水俳句の条件ではないようだ。このような立場で読めば、簡単に解説できるような俳句には碌なものはないという意見を思い出す。
ともかく、清水俳句は抒情ある想念の句であって、事実を超えた認識を詠んでいる。たとえば、〈058 冬満月裏側きっと象通る〉や〈144 狐火のひとつはマグダラのマリア〉にみられる通りである。シュール・レアリズムとまではいわないが、清水俳句は読者を彼女の特有な詩の世界に誘ってくれる。
右に挙げた句群は、365句から、小生が何かの魅力を感じ取ることができた句を抽出した結果である。いくつかの句について、勝手な鑑賞を書かせて戴く。
037 深爪の男あつまる桃の花(*)
すこし奇妙だが魅力ある句である。十人いたら十通りの解釈ができるであろう。まず「深爪の男」とはどういう男なのであろうか。たまたま深爪をしてしまった男ではない。普段から身ぎれいにしている男で、爪もいつもきちんと短く切り、手入れしている男なのである。結構、神経質な男かも知れない。「あつまる」だから、そういう類の男が沢山いるという世界のことである。艶っぽい世界の男なのかもしれない。
疑問が沢山沸いてくるのだが、俳句は短い。解釈は「季語」が助けてくれる場合がある。ここでは「桃の花」。だからまず、桃の節句が舞台なのだと考えてみる。しかし、どう考えても、少女や「雛の客」が登場人物ではない。深爪の男が集まる場面なのである。粋な男たちで、歌舞伎の「助六」のような人物かもしれない。いや、助六なら「桃の花」ではなく「桜」が来るべきである。そうして小生の読みは破綻する。また思いを巡らせ始める。
007 空席のひとつ華やぐ鳥の恋
183 繃帯の白帆かがやく鳥の恋
「鳥の恋」を配合したこれらの二句を考えてみる。
通常「空席のひとつ」といわれると、いつもはある人が決まって座る席で、その人は今日はそこにはいない状況を指す。いくつかあるその空席のひとつが「華やいでいる」のだ。その人が亡くなった訳ではない。配合された季語は「鳥の恋」だから、前向きの句なはずである。そうすると、その人にはなにか良いことがって、その席が今は空いているのかも知れないし、これから誰か意中の人が来てそこに坐るのだとも解釈できる。なんとなく良い思いを感じさせくれるのだが、謎は残る。いずれにせよ、夢想空間に囀っている鳥だけは、はっきり読み手の脳裏に残る。
二句目。「繃帯の白帆」といわれて連想した景は、昔のことでいまは多分ないであろうが、病院の屋上に沢山の繃帯が干してある場面だ。これなら「白帆」に見える。時は、光輝く「鳥の恋」の季節だ。作者の場面とは違うかもしれないが・・・。
061 人らみな踵失くしてかいやぐら
この雰囲気は分かる。「かいやぐら」を観る人は、自分の「踵」がなくなった気分になるのだ。あるいは、観ている人がみな「踵」をなくして「かいやぐら」になってしまうのかも知れない。どちらなのだろう? 分からなくても魅力のある句。
098 麦秋の絹いちまいを風という
130 乱丁の本の中なる蟬しぐれ
二句とも感覚的な句。一句目は、美しい言葉で仕上げた句。「いちまい」の光沢のある「絹」の柔らかい肌触り。ただし、「麦秋」は夏の季語なので、人によっては、清涼感のある初秋の季語の方が、絹には相応しいと思うかもしれない。
二句目の「蝉しぐれ」は蝉の合唱で、指揮者はいない。それが「乱丁の本の中」から聞こえてくるという。これは面白い感受である。
149 ルーアンの大聖堂を春の夢
実際のルーアン大聖堂よりも、クロード・モネの絵を思う。朧の中の聖堂はまさに「春の夢」がぴったり。この句集には珍しいほどの素直で平明な句。
198 蜻蛉生る風ことごとく父の私語
清水さんには母の句も、妹さんの句も多い。父の句も沢山ある。通常の俳人の句集には母が圧倒的で父が少ない。村越化石はほとんど母ばかりだった。この句は、作者の父へのオマージュである。しかも父上の日常のイメージが読者にも伝わってくる。上手い句。とくに「私語」の着地がいい。
204 ヴィ―ナスの腕さびしき枇杷熟るる
ヴィーナスの絵画や彫刻は沢山ある。だが、これはミロのヴィーナスであろう。左腕がまったく欠けており、右腕は上腕だけが残っている。腕がないことを、作者はさびしいと思ったに違いない。
問題は読むとき何処で切って読むかである。先ず素直に「ヴィーナスの腕(かいな)」で切る。それに「さびしき枇杷熟るる」を配合する。だが、どうも落ち着かない。その理由は「さびしき枇杷」がイメージできないからである。しかも「熟るる」だから、色づいた枇杷が目に見え「さびしき」に繋がらない。意味的には、さびしいのはむしろヴィーナスの腕ではなかろうかと、読者は勝手に「ヴィーナスの腕(かいな)さびしく枇杷熟るる」のように読み替えてしまう。
むしろはっきり「さびしき」で切る読みはありえないのだろうか? 文法に詳しくないのではっきりとは言えないが、あり得ると思う。その場合は、意味としては「ヴィーナスの腕(かいな)さびしや枇杷熟るる」の感じとなる。
どちらであるかはさておき、「枇杷熟るる」の配合は、その離れ技が上手い。沢山の枇杷の実が色づいている。収穫しようにも両腕がない淋しさ。この屈折感がいい。矢張りさびしいのは「腕」であって、枇杷ではないのではなかろうか。
このように自問自答してゆくと、この句集から膨大な詩的な示唆を得ることができそうである。
楽しませて戴きました。
Comments