大ベテランの秦さんの第十八句集である(2022年1月15日、ふらんす堂発行)。氏は「豈」所属で個人誌「GA」を発行されている。『金の輪』は小川未明の童話の題名からとられた。「金の輪」ということばが浮んですぐに〈金の輪をくゞる柩や星涼し〉ができたという。未明の童話も実体験から生まれた。表現者は実体験に根差したものしか書けない。しかし、夢はいくらでも繰り広げられる、と秦さんは「あとがき」に書いている。だからであろうか、「夢」がところどころに出てくる。
自選15句は次の通り。
夢の字は艸(くさかんむり)や夏嵐
曇天を流るゝ時間ちやんちやんこ
その声はたしかに異界黄水仙
不死鳥の頁に付箋大夕焼け
しらみゆくこの世の丈の火吹竹
正夢に赤のきはだつ寒さかな
青銅のキリストおはす雪の闇
金の輪をくゞる柩や星涼し
黒猫のすゞしくあゆむ奈落かな
ありふれた雨です爆心地の四葩
八月や息するうちを人といふ
さみしいといへぬさみしさ花石榴
夜は雲のながれやまざり遠蛙
その時は目をつむりませう玉子酒
胎内や渦まき昏るゝ飛花落花
小生の感銘句は次の通り。(*)印は自選句と重なった。
007 夕顔やゆるく心をあそばせて
016 花石榴あざとき夢のひとかけら
017 大西日もどつてはこぬブーメラン
024 寒紅やうらみつらみもつまらなし
033 きしむかな真冬の夢の入り口は
039 吹かれつぱなし茅花も遠きはらからも
043 遠野火や魂ひとつおきざりに
047 川開ふはと男のにほひして
052 てんたんと日はまた昇る糸蜻蛉
059 正夢に赤のきはだつ寒さかな(*)
061 音たてゝ狐火生るゝ筑紫かな
065 深沈と枯野は人を恋ひにけり
066 迷宮へふる雪の香のほのあまし
072 虎杖に水音とゞく古戦場
075 雷鳴に砂漠の花のひらくかな
079 黒猫のすゞしくあゆむ奈落かな(*)
080 ありふれた雨です爆心地の四葩(*)
093 見えぬぞえ青い小鳥も金の輪も
094 冷やかに指輪ありけり遊園地
098 敗戦日振子のいらぬ時計ふえ
103 歯固めの箸おく「銀の匙」もおく
109 麦秋やつゝがなく織る黄八丈
111 遠雷に孔雀の檻のたぢろぎぬ
121 薔薇に雨とても死ぬとはおもへない
125 髪洗ふ故郷は熱をもたざりき
126 曇天や鮎の背びれの飾り塩
130 髪洗ふ冥府の風のほのあまし
132 戰またあるか湖畔をよぎる蛇
137 さみしいといへぬさみしさ花石榴(*)
141 八月や息するうちを人といふ(*)
143 傾ぐとき別の世にほふ秋日傘
144 満月は獣のにほひとゞめけり
147 既視感の闇青臭し秋蛍
159 その時は目をつむりませう玉子酒(*)
160 枯尾花揺れざまつかむ光かな
163 夜は雲のながれやまざり遠蛙(*)
この句集を読み始めて気が付いた。多くの平均的な句集と持ち味が違うのである。予定調和的な句が少なく、難解な句がかなり多い。しかし、何度か読むうちに、判然としないものの、触発されるものを感じた。一般に、平易な俳句は、すんなり通り抜けてしまって、読者に残るものが少ない。だがこの句集の、小生にとって難解と思われる句の場合は、ああでもこうでもないと懊悩しながら、勝手に別の季語や言葉を入れかえたりして、わたくし流の句を書いてみたくなった。その点、あまりにも分かり易い句や、こうとしか読めないような句よりも、よほど楽しい句がこの句集に一杯である。その意味で「啓発される」句が多いと気づいたのである。
結果的に共鳴句の数はかなり多かった。難解な句群の中に、予定調和的でなく、分かったと思う句があると、印象度が高くなり、つい、戴いてしまう。自選句と重なった句の数が七句と、これは通常の句集の場合と比べて極めて多い。嬉しいことである。
幾つかを鑑賞します。
075 雷鳴に砂漠の花のひらくかな
特殊な条件下で砂漠にも花が咲くようである(チリやウズベキスタンの砂漠)。つまりこの句は本物の花を詠んだのである……かどうか、実は、確かではない。砂漠に雷が鳴ることは稀有の事であろうし、「砂漠の花」という曲や小説があるようなので、自信がない。だが、小生にとって「砂漠の花」といわれると、砂漠で硫酸カルシウムなどが固まって星型になったり、薔薇の花のような形になることがあり、そのことかとも思われる。砂漠のお土産として「砂漠の薔薇」がある会社の豪華な応接室に飾ってあるのを見たことがある。そう考えれば、鉱物である「砂漠の薔薇」が折からの雷鳴によって命を与えられたかのように「ひらいた」と感受するのは極めて詩的である。
不確かなので、あまり意味を求めなくても、これはこれで面白い句であると感じた。
080 ありふれた雨です爆心地の四葩(*)
広島であろう。雨の中に紫陽花が咲いている。黒い雨ではない。平和な「ありふれた」雨です……といっている。悲劇の街に、今はごく普通の雨が降っていて花が咲いているのだ。そういわれると読者はいろいろ考えこむ。秦さんの言わんとするところを、いろいろ思いめぐらす。楽しい思索の時間を与えられた感じ。安寧がもどった広島の日常を思った。
098 敗戦日振子のいらぬ時計ふえ
昭和二十年八月十五日。あの頃は、掛け時計はみな振子式だった。今は電子仕掛けで、振子どころか針さえない。生活の場から消えたものが随分と多い。ダイヤル式の電話もなくなった。公衆電話も消えかかっている。いや、街を闊歩していた軍人さんも消えた。戦争を知っている人も少なくなった。
125 髪洗ふ故郷は熱をもたざりき
自分のことですが、生まれ故郷も随分と変わった。父や母が健在なころは、故郷に帰る機会が多かった。今では段々と故郷への思いが薄れてきてしまっている。髪を洗うとき、ふっとそんなことを思うのである。
141 八月や息するうちを人といふ(*)
「八月」というとどうしても敗戦を思う。死者を思う。日本人にとっては特別な月である。「息する」は生きている証拠。生きている間のみが人間でいられるのである。言外に死んだら尊厳も何もない、といっているのか。あの八月を境に、生きているのは人間で、それ以前は息していても人間でなかった、といっているのか。はっきり書かれていないので、思索がつづく。その意味で、いろいろ考えさせられる句である。
有難う御座いました。
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