「沖」主宰の能村研三さんの第八句集である(東京四季出版、2021年5月24日発行)。平成25年から30年までの三五八句を納めている。
自選12句は次の通り。
筆の穂を噛めば筆の香二月来る
眼に力入れて見てゐる稲の花
一島を被り余して鰯雲
濤声を呼ぶ大鷹の渡りかな
回想の起点としたり赤とんぼ
駅の名を見る狩人が降りてより
桃活けて壺中の闇を濃くしたり
暁闇の冷えを纏ひて神鵜翔つ
偏照りのあとの偏降り青胡桃
疾走の一艇のあと秋立てり
鶏冠のまだ揺れてゐる野分あと
根ざらしの崖に秋寂ぶ音を聴く
この句集を読んで得た感銘は、語彙の豊富さである。理系育ちで浅学な小生にとって、初めて遭遇する「言葉」の魅力が多かった。恥をさらすようだが、冒頭の句〈淑気満つ梅鼠てふ古代色〉の「梅鼠」は「古代色」とあるから見当はつくものの、パソコンで調べて初めてその微妙な色合いを知った。利休鼠や縹色を初めて知ったときもそうだったが、美しい色に対して、大和言葉ならではの柔らかい言葉があることは嬉しいことである。JIS規格で色ナンバーを言うのとでは大きな違いである。
小生(栗林)にとっての新しい言葉は、恥の上塗りだが、「梅鼠」を含め「閘室」「葷酒」「暮古月」「貝の口結び」「すべり言葉」「塵外」「華乗り」「眉丈」「眉宇」「小半機嫌」「足半」「真間」「八月大名」「群狼の離別」の15語であった。これらはパソコンの世話になった。お陰様で語彙が増え、財産が増えたような気がした。
小生の好きな句は70句ほどであったが、中から10数句に絞って掲げ、短い鑑賞を書かせて戴きます。
まず研三さんの父登四郎さんに係わる句を挙げてみる。
053 草田男の沖・登四郎の沖真炎天
124 実むらさき正座が常の父なりし
154 銜へ煙草の父の写真や竹の春
155 秋の灯や考(ちち)が慣ひの観世縒
なかでも、053は草田男の〈玫瑰や今も沖には未来あり〉と登四郎の〈火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ〉を思い出させてくれる。いずれも人口に膾炙している代表句である。小生は登四郎の謦咳に接したことはないが、多くの写真から、大柄な氏の面影を思い浮かべている。それにしても「沖」は多くの良き弟子たちを育てたものである。
026 猪独活の峠照り降り繰り返す
小生の故郷北海道の原野にも夏には「猪独活」が咲く。高いのではニメートルほどにもなり、レース状の白い花が目立つ。その場所が峠で、日照り雨が降っている。緑の原野にやや丈高く「猪独活」が咲いているのだ。印象的な風景であり、大景である。
028 手を回し内鍵開ける盆休み
ほんのちょっとした動作。それが一句となる。「盆休み」で家人は留守なのかもしれない。裏木戸に回って枝折戸の内鍵に手を回すのであろう。これが俳句だという見本である。
042 遠足の列は余さず森に入る
同じ様なモチーフの句に〈遠足バスいつまでも子の出できたる 小澤實〉や〈遠足の列大丸の中とおる 田川飛旅子〉があるが、この句はバスやデパートではなく、もっと遠足に即した「森」を正面から詠っている。その点好感が持てる。
058 秋気澄む岡部旅籠の撥ね上げ戸
小生もこの岡部の旅籠を訪れたことがある。「柏屋」といったと思う。村越化石について書くとき、彼の故郷藤枝市の岡部を訪ねたときだった。近くに〈十団子も小粒になりぬ秋の風 許六〉や〈梅若菜丸子の宿のとろろ汁 芭蕉〉などで有名な宇津ノ谷峠や丸子宿がある。そしてもちろん化石さんの〈望郷の目覚む八十八夜かな〉の句碑もある。茶どころでもある。
「共時性」とでもいうのであろうか、同じ場面を想起して懐かしくなる。これも俳句がもたらしてくれる恩恵であろう。
071 振り代のある花種の袋かな
「種袋」をさっと振ってみる。ささやかな音がして、花咲くときや稔りのときを想像させてくれる。季語の力を授かった句。
090 濤声を呼ぶ大鷹の渡りかな(*)
雄大な景。小生はまだ大鷹の渡りを見たことがないので「共時性」は理由にならないが、俳人たちが「鷹の渡り」や「鷹柱」を楽しみに見に行くことがあるようだ。小生は、杜国を訪ねて芭蕉が詠んだ〈鷹ひとつ見つけてうれし伊良湖崎〉の嬉しさを思っている。
128 暁闇の冷えを纏ひて神鵜翔つ(*)
129 鵜に勧進眉丈の夜気の冴ゆるかな
能登の羽咋市にある氣多大社の夜の神事。鵜が吉凶を占うのだそうだ。「眉丈」(びじょう)は土地の山の名前らしい。何となく奥ゆかしい響きである。行ったことはないが、想像している。この句集の題となった句群。
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