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藤野 武 句集『光(かげ)ひとり』





 藤野さんは「海程」終刊後は「海原」(安西篤代表)の同人、そして「遊牧」(塩野谷仁代表)にも所属しておられる。1992年に角川俳句賞を受けるなど、実力俳人である。この句集は、第三句集(令和三年九月十日、飯塚書店発行)で、2015年以降の323句から成る。


 冒頭の句は、次の句である。


007 いのちなり掌(て)に雪片(ひら)の重さなり


 実に端正な叙物句でありながら、「いのちあり」に情が籠められている。このような「情」を籠めたやや伝統俳句的な作品が、次々と現れる。(*)印は自選句(後出)と重なったものである。


008 白鳥帰る産土の乳房のあたり

010 夕蜩思いは生絹(すずし)のごとし遠し(*)

011 髭あたる残暑というも淡くなり

013 旅に寝てこつと秋星落ちる気配

016 大根の染み込みし亡母(はは)のおとし蓋

017 愛しきは土器に指あと冬銀河

034 筍ごはん炊けたと翡翠(ひすい)のような声で

044 とび箱の日なた臭くて秋の蜂


 だが、少しずつ思惟的で、屈折と翳のある現代俳句的作品が増えて来る。


047 熟柿落つ自由というも危うくて(*)

049 人口減少耳の冷たさ白湯のぬるさ

064 たそがれの指紋だらけの夏の街

091 金魚浮かぶこの国は縮みつつあり

098 花火消え凡庸な闇残りけり

100 菊の花弁のしなやかな反り不登校

121 やわらかなクレソンを食べ監視社会

137 茶の花小さし冷たし虐待死せし児よ


 軽い破調もある。これらが型式としても、内容的にも、藤野さんの志向する作品群なのかもしれない。こと軽い破調ということで見直すと実は、この傾向は先の句群にもあった。たとえば、〈010 夕蜩思いは生絹(すずし)のごとし遠し〉、〈013 旅に寝てこつと秋星落ちる気配〉、さらに、〈034 筍ごはん炊けたと翡翠(ひすい)のような声で〉などである。藤野さんは、口語調を活かし、日常の活き活き感を優先したに違いない。いかにも「海程」的と言える。


 兜太を悼む句も複数ある。中から次の一句を戴いた。「金子兜太先生二月二十日他界す 弔句五句」との前書きのある中の一句である。


083 しずむ陽に泪す青鮫も狼も


 あたかも、動物たちが集まって釈迦入寂に泪している涅槃図のようである。兜太は多くの弟子たちから、あるいはその論敵からも親しまれ愛された。二月二十日は「青鮫忌」として定着しているようだ。私にとっても、子規、虚子に肩を並べる大俳人を失った感がある。


 社会性を持った作品もある。


 先に挙げた049の「人口減少」、064の「たそがれの指紋だらけ」、091の「金魚浮かぶこの国」、121の「やわらかな・・・監視社会」、137の「茶の花・・・虐待死」なども社会に目を向けた句群であるが、さらに


059 蝶うらら街に飛び交うつけ睫毛

129 老人ホームに虫ピンで止められし晩夏(*)


などもその範疇に入るであろう。もちろんご自分の内面を書いた句も多いが、藤野さんの興味の対象は広く一般社会にもあって、静かな言葉遣いだが、批評眼が見えてくる。


 まだまだ好句がある。


119 やさしさの一つ一つが豆の花


 いろいろな味を持った句がある中で、このような句を見つけると、なぜか人間の落ち着き先が、ここにあるような気がするのである。平明に過ぎる句である。しかし、私のイチオシの句と言ってもよい。


 これらの他にも共感句が多くあるので、次に掲げる。


050 空ほころび光は白鳥となりぬ

058 ひばり高きへ泡色硝子に恋しては

065 終わりあるものら集いて蛍の火

065 仮名書きのように蛍火消え入りぬ

077 訃報あり綿虫に手がとどかない

093 かき氷不意に四年も飛ぶドラマ

106 妻へ白鳥さびしらの波紋を生みぬ

112 女優ふっと老いの浮かびし冬椿

119 嬰にもやがて抱えきれない春の雲

122 背後に人の体温のあり春の通夜

145 蜂蜜のどろりとたれるなま返事

171 石蕗の花両手に何もなき快楽(けらく)

178 流れに逆らう若鮎と私の中の少年


なお、藤野さんのご自身の自選15句は次の通り。(*)印は小生も大いに共感した句。

 

  夕蜩思いは生絹(すずし)のごとし遠し(*)

  ががんぼを言霊のように手で包む

  日傘とう一瞬の光(かげ)君は病み

  熟柿落つ自由というも危うくて(*)

  矢印の方へ人行く晩夏なり

  蛇穴にゆるると古典的な所作

  桐の実のやさしく拒否するとき揺れる

  青麦のきらきらきらと物忘れ

  老人ホームに虫ピンで止められし晩夏(*)

  霧の来て山わしづかむ我が胸も

  空(から)の巣へ秋雲寄するばかりなり

  うろうろふわふわ早春は白犬

  鮎光り翳り言葉は古りゆけり

  人よ癒えよ嬰の握りし夏の光

  冬星鋭(と)し我ら流てされて久し


 心に残る句集でした。ありがとうございました。             以上


追記

 実は小生自身の勉強のために、「定型」という点での藤野さんのお考えを知りたいと思い、次の三つの句を例に、質問をさせて戴いた。

010 夕蜩思いは生絹(すずし)のごとし遠し

013 旅に寝てこつと秋星落ちる気配

034 筍ごはん炊けたと翡翠(ひすい)のような声で

 小生の質問は、010に対しては、「夕蜩思いは生絹(すずし)のごと遠し」と「ごとし」を「ごと」とし、定型により近くするのは如何か? そうすることで、三段切れ的な印象も薄められます。「ごとし」を「ごと」と縮めるのは誤りだとの主張もありますが、たまに見かける用法でもありましょう。藤野さんは「ごとし」を正しく使って、しかも軽く切って「遠し」を置き、あらためて「遠さ」を「し」のリフレインで強調しているということは理解できます。

 013の〈旅に寝てこつと秋星落ちる気配〉では、下五を「落ちる気配」を「落つ気配」としていけないでしょうか? という問いである。もっともこの「落つ」は終止形で、連体形は文語なら「落つる」でなくてはいけない。とするとやはり口語体を使って「落ちる気配」となるのも分かります。

 さらに、〈034 筍ごはん炊けたと翡翠(ひすい)のような声で〉については、小生なら、定型に近づけようとして、下五の「で」を削除してしまいがちです。だが、藤野さんはそうはされない。口語調を活かし、日常の活き活き感を優先したに違いない。いかにも「海程」的と言えるかもしれません。


 以上の不躾けな質問に対し、藤野さんの回答は次の通り、極めて納得の行くものであった。諸賢にも参考になるものと思い、掲載いたします。


 藤野さんの回答の要旨。まず、藤野さんの「定型」観から……


 若い時に金子兜太先生から「君は、指を折って(五七五に当てはめて)句を作るようなことはしないだろう」と指摘されたことがありました。私はこの言葉を、私の体質をずばり言い当てていると思い、また私への評価の一つとも感じました。

 そして今でも、私の韻律の基本は、肉感的、体感的なものだと思っていて、ここを大切にしています。

 五七五の定型に自分の気持ちを無理して押し込めるのでなく、兜太先生の「『三三三』から『九九九』が許容範囲」という、五七五の定型感と自分の気持ちの折り合ったところで俳句を作っていく、ということかもしれません。なるべく定型によって自分の気持ちを殺さない、定型によって自分の気持ちを生かす。(傍線は栗林)


 次に010の「夕蜩…」については……ここはあえて「…し」「…し」とし、思いをたたみかけて、ある種の思いの増幅効果をねらいました。

 013の「旅に寝て…」については……「落つ」では軽く切れてしまうように思いました。この句の全体的な雰囲気から、ゆるくゆったりと表現することを選びました。一定の時間をもった「旅の途中」の感じ、「寝落つ」感じ、「星が落ちる」感じ、その軌跡など。

 最後の034の「筍ごはん…」については……この句は、今となってみればご指摘に得心がいきます。当時のことを後付けで考えてみますと、「…で」で、何か余裕のようなもの余韻のようなもの(筍ごはんだから余香?)が欲しかったのかもしれません。日常にゆったり流れるけだるい空気?


 多分に好みの問題でもあり難しいところですが。              以上


 この通り、懇切なご説明を戴いた。納得し、厚くお礼申し上げます。

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