俳句の文学性を追求する句集である。
赤野さんは現代俳句新人賞を受けられた気鋭の俳人。すでに句集を二冊出されており、これは第三句集である。2021年9月30日、RANGAI文庫発行。
自選と思われる10句は次の通り。(注記:赤野さんからのメールで、下記は自選ではなくRANGAI文庫のオーナー歌人、早坂類さんの選であるとのことでした。訂正させて戴きます。令和4年1月26日)
いきるとはつたえることや秋の雲
人類終活みな柿の木にのぼる
高僧の回転しつつ悟る靑
霧箱を運んで一人はぐれけり
街中の正気を洗う春時雨
民草を焼いてなんぼの聖火かな
雨よ永い永い昼寝ということか
夏雲や起伏の大きな運転手
きりん生きて死ぬまた陽が昇る
月曜の曲がり道ゆく楽しさよ
赤野さんは比較的俳句性のある作品を自選したように思う。句集全体を通読すると、口語的一行現代詩のような作品が多くあるようなのだが・・・。中から、小生が戴いた句は次の通り。(*)印は自選と重なった句。
014 蜘蛛は巣を全て感じて安らいだ
014 こそこそと生きて海月の光かな
022 いきるとはつたえることや秋の雲(*)
024 草泊みんな生きるのは初めて
029 生垣に猫生えてくる神無月
030 君つれて綿虫が来る一緒に住む
047 からすのえんどう縁なき人の死の報せ
047 千人に一人がぞんび春の風
051 春楡の巨木のごとき長風呂よ
056 チェロを弾く私生児の髪梳くように
065 公開処刑ねえそこのケチャップとって
071 霧箱を運んで一人はぐれけり(*)
073 蛇の芽の芽吹いてほら一面の蛇
075 葱と若布買って楽園まであるく
076 月曜の曲がり道ゆく楽しさよ(*)
083 永遠に死なぬ顔して秋の猫
089 蟷螂の喰われるまでの手管かな
121 星の時 胡瓜畑の母と出会う
難解句が多い中で3句も自選と重なったのは意外である、と同時にうれしい。
冒頭に書いた通り、この句集「ホフリ」には、俳句の文学性を追求するが為、伝達性を犠牲にしている句が多くあるように、小生は思う。小生にとって、難し過ぎる句が殆どであった。作品には、五七五にも季語にも拘らず、だから一行詩に近い作品が多い。表現主義的俳句群といえようか。
赤野氏が2016年の現代俳句新人賞受賞者であることを思いだして同年の「現代俳句」11月号を読み返した。掲載されていた応募30句のうち、小生は13句にすでにレ点を打ってあった。共鳴の句が多かったのである。選考委員のコメントには、独善性や言葉の上滑りを指摘するものがあったが、観念語や隠喩が、そこに留まらずに、みずみずしい肉感をもって訴えているとの意見が支配的であった。詩と俳句を架橋する独自性、そしてその新鮮さ、感情のゆらぎを写生を越えて表現したなどなど、赤野句の現代俳句性を擁護する意見があった。ただし、分かり過ぎる句を、解り過ぎるから良くない、とする風潮が選考の際に働いたとすると、それは、小生の個人的な意見だが、少し心配である。選考の場は、選考委員も厳しい試練を受ける場であるとの述懐があったが、その点は全く同感である。
さて、今回の句集だが、小生にはより難解度が増したように思った。つまり、文学性や詩性は増したが、伝達性は厳しくなったのではなかろうか。俳句での文学性の追求は詩の世界への近づきを意味するように小生は思う。それは俳句性の喪失と伝達性の低下をまねきかねない、と危惧する。そう心配するのは小生だけなのかもしれないが・・・。
とまれ、上に掲げたのは、小生にとって内容が分かり(つまり伝達性があり)、詩性もあり、ぎりぎり俳句性もあると感じた作品群である。もちろん、氏の挑戦を力強く思い、応援している。
「ホフリ」は小生にとって大きな刺激となった句集でした。多謝。
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