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鈴木康久句集『九皐枝折』


 湘南の人と自然への賛歌と自祝の句集

 

 鈴木主宰からはいつも「さがみね」を送って戴いており、中身はもとより裏表紙の花鳥の写真も楽しませて戴いている。この句集『九皐枝折』は先の『八俵泡垂』に次ぐ第九句集で、氏の旺盛な表現者ぶりに感銘を受けた。『六天風月』に〈年寄に家出のこころ秋立つ日〉のような句があって、俳諧味を楽しんだものだった。

 さて、この第九句集『九皐枝折(きゅうこうしおり)』の題名が、やはり凝っている。「九皐」とは、曲がりくねった奥深い沼沢で深淵な所という意であるらしい。「枝折」は山道の枝を折って、歩いて来た経路の目印にしてあることをいうようだ。言ってみれば、「深遠な場所への道しるべ」という意になろう。中々にして深い意図のある句集である。

 角川文化振興財団、2024年5月22日発行。


 以下の句鑑賞文は、該句集の跋に挙げていただいたものであります。


 共感した句を挙げよう。

 

  春めきて音まがりくる野川かな 令和三年

 「野川」というのは固有名詞かも知れないが、地元の野を流れる川のことと受取った。句集に何度か出てくる。適度に蛇行していて、川面が春の日に光って見える。「音まがりくる」の表現から、今日は一段と春めいてきていて、水量が多いようだ、と思わせてくれる。水音が気持ち良く聞こえてくる。湘南の春の明るい田園風景を、音を交えて活写した。このような句に出会うと、ゆったり感とともに躍動感が湧いてきて、読者は嬉しくなる。


  たつぷりと空に雨あり半夏生  令和三年

 「半夏生」は、時候の季語とも半夏生草とも受け取れよう。梅雨が明けるころだが、雨意に富んだ厚い雨雲がかかっている。憂鬱ではあるが、稲作には欠かせない雨である。この雨のお蔭で我々農耕民族は生きて来られた。開けると日差しの強い夏が始まる……などとは書いていないが、それまでにたっぷり慈雨をとりこんで育って欲しいと作者は思っているに違いない。


  花すすき挿し足されある供花の筒  令和三年

いいですね、このような心配り。誰かが墓前の花挿しにすすきを足して下さったの。故人と仲の良かったあの人だろうか。いや、特定の故人墓ではなく、路傍のお地蔵さんでも良い。挿し足したのが通りすがりの人ならなお良い。


  秋郊や先行く影の両手杖    令和四年

 「両手杖」はスキーのストックのように二本の杖を左右の手で使うことをいうのであろう。トレッキングなどではわりに早く歩ける。そう解釈するのが普通であろうが、私は立ち止まって休んでいる景を想像してみた。二本の杖を体の真ん中にして、それに両手を添え、体を預けながら、ゆったりと秋の景を楽しんでいる。誤読かもしれないが、このような景も捨てがたい。


  鶯餅買うて万札くづれけり   令和五年

 ありますね、こういう状況。「鶯餅」が絶妙。そのサイズがいい。大きなものでは粋な俳味が消されてしまい、崩した金がすぐ無くなってしまう、というように社会詠じみてしまう。


  自転車のまだある夏至や町医院 令和五年

鈴木さんのかかりつけの個人病院であろうか。暮れの遅い夏の夕方。三時間ほど前に通りかかったとき見た自転車がまだ玄関脇にある。話好きな常連患者が、日の永いことをいいことに、先生と世間話を楽しんでいるに違いない。おおらかでいいですよね、こういう句は!

全体を読んで、句集『九皐枝折』は、湘南の自然とそこに住む人々への賛歌、それに加えて卒寿を迎えるご自身への自祝の句集であるように読めた。嬉しいことである。

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