微笑ましい吾子燦燦の句集である。
青池さんは「百鳥」(大串章主宰)に平成7年入会し、現在同結社の同人。俳句甲子園で徳山高校を優勝に押し上げるなど、山口県の俳壇をふくめ、おおいにご活躍である。その第一句集(東京四季出版、令和三年十二月二十三日発行)。
序文は太田土男氏で、跋は中山世一氏。お二人とも「百鳥」の重鎮であられる。夫人ののぞみさんも俳人で、同結社の甲斐遊糸・ゆき子さんのお嬢さん。青池さんご夫妻の結婚は「俳句をするなら」という甲斐さんの条件つきだったという。このような背景が詳しく序文と跋文に書かれている。
作品は「百鳥」の句柄そのもの。平明で向日性ゆたかである。
自選句12句は次の通り。
石段は海へ海へと鳳仙花
西瓜苗見てから朝の教室へ
夕立の一年ぶりのにほひかな
卒業やバレーボールに寄せ書きす
海峡をゆく船笛や卒業す
うつすらと草燃す烟秋旱
手の届くところまで拭き春の空
いちじくや潮ひたひたと満ちて来し
河豚喰うて寄り掛かりたる床柱
潮流に船の逆らふ桜かな
夏至夕べ子猫の鈴のよく鳴りぬ
職員室の机の上の夏蜜柑
小生が共感した作品は次の通り多数におよんだ。(*)印は自選句と重なったもの。
020 遠足は農学校の牛を見に
025 展望台より電話くれ合格子
025 西瓜苗見てから朝の教室に(*)
034 妊りの妻に柚子湯を沸かしけり
034 子の名前考へてゐる聖夜かな
038 秋桜職場に赤子見せに行く
042 かき氷屋に顔の利く生徒かな
046 こどもの日象見ては象さんの歌
066 寝間着の子負はれて帰る蛍狩
085 神の田を苗さし上げてまはりけり
106 矢の先に蜻蛉とまつてしまひけり
113 夕涼みがてら小銭を持つて出る
114 夏帽を取り聖堂に入りけり
123 着ぐるみも出て新米の売られけり
129 夕立に子どものときのやうに濡れ
131 父と口きかぬ娘や青林檎
136 流し雛すぐにひつくり返りけり
141 台風裡餃子の皮を展ばしをり
142 綿菓子に子どもの並ぶ文化の日
148 つつじ祭知らずに来たる人もゐて
149 朝顔に水やつてから出勤す
155 二日はや娘を塾に送りけり
163 歳晩のビル街に捨て氷かな
183 まず雪見障子を開くる湯宿かな
195 教へ子が同僚となる樟若葉
冒頭に書いたように、この句集は吾子燦燦の句集である。もちろんそれだけでなく、家族や職場の何気ない出来事の断片々々に明るい視線をあてて書いた作品も多い。好感が持て、安心して読み通せる句集である。読後感は極めて爽やか!
幾つかを鑑賞しよう。いずれも平明なので多くの言葉はいらない。
025 西瓜苗見てから朝の教室に(*)
同じような場面の句に〈149 朝顔に水やつてから出勤す〉がある。青池さんは教職がお仕事で、学校の菜園かプランターの「西瓜の苗」が気になるのである。見届けてから教室に入る。なぜこの句に共鳴を覚えるのかを考えれば、花壇やプランターの苗は、一日一日成長が早い。しかも手を抜くとそれがすぐに結果に現れる。すくすく育っているのを確認するのが楽しい。青池さんの句に向日性があると書いたのは、このような句から来る印象なのである。
038 秋桜職場に赤子見せに行く
長女のあまねちゃんであろう。最近、特に大都会ではこういう場面は多くはない。むかしはよくあった。職住接近の地方都市ではいまもあるのであろう。地に足付けて生活する人々のゆとりといったもの、あるいは、人々のこころの豊かさが読み取れる。
113 夕涼みがてら小銭を持つて出る
この感覚がすばらしい。ゆったり感。地域社会に溶け込んでいる青池一家の日常の景なのであろう。映画でいえば小津安二郎の世界であろうか。
131 父と口きかぬ娘や青林檎
子の成長は早い。自我を持ち始めた吾子と不思議に意見が合わなくなったりする。一人の人間になってゆく過程である。このような一句があると、それが普通の家庭なのだ、と安心するから不思議だ。明るいことだけではなく、ふと心配事が顔をのぞかせる。本当を書いた句集なのだと思うのである。
142 綿菓子に子どもの並ぶ文化の日
「文化の日」は意外に難しい季語である。この日の意義を斜に構えて詠んでしまうことがままある。この句はそうではないものの、かるい屈折を覚える一句である。もちろん、小生の勝手な読みかも知れないが、かえって、それもありかと思うのである。
楽しい句集を有難う御座いました。
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