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高柳克弘句集『涼しき無』

更新日:2022年5月18日




 高柳克弘と言えば、句集『未踏』(2009年6月22日、ふらんす堂発行)の

  ことごとく未踏なりけり冬の星

  くちびるのありてうたはぬ雛かな

などのイメージが私の胸底に沈着している。だから今回の『涼しき無』(2022年4月27日、ふらんす堂発行)を一読して私は、この句集は求道の士が石に爪で書いた碑であるかのように感じ取った。以前の高柳句集『未踏』に比して、その持ち味があまりにも違うのである。

 その様に考える根拠は、高柳の『究極の俳句』(中央公論新社、2021年6月10日発行)にある。該著の第三章「俳句は重い文芸である」の部分に注目すべき記述がある。俳句は主題を持つべきであるというのである。


 子規や虚子の俳句は、季語が主題であった(だから季題と言われてきた)。だが、「季語の他に、ある主題があるということは、ごく自然に成り立つことであり、季語と主題を一致させる〈ホトトギス〉流の書き方は、むしろ傍流とすらいえるのだ」と高柳は主張する。そして人々は季語以外の主題を設定し、ものが言えない俳句という詩型を通して、何か意味のある事を言おうと努力してきた。

  この道や行く人なしに秋の暮     芭蕉

  この秋は何で年寄る雲に鳥

 芭蕉の句が重いのは、季語の他に主題を持っているからだ。


 最終章にも重要な記述がある。その部分を再掲しよう。


  俳句の新しさは、もはや汲みつくされたという人もあるだろう。文体の新しさ、素材の 

 新しさには限界がある。ただし、主題については限りがない。人の数だけ、詠むべきもの

 はある。一つは、新しい主題を見つけること

   ポテトチップの空き袋氷り泥の中     関 悦史

   地下道を布団引きずる男かな

   ガーベラ挿すコロナビールの空き瓶に   栄 猿丸

   椎茸の切れ込みにつゆ溜まりけり    小野あらた

 もう一つは、古い主題をもう一度握りなおすこと。

   来ることの嬉しき燕きたりけり      石田郷子


 俳句に一生をかけ、精進している高柳氏の、知と情が、そこら中に感じられる著作『究極の俳句』であった。


 高柳克弘氏は、1980年生まれ。藤田湘子に師事し、2004年、俳句研究賞受賞。結社「鷹」(小川軽舟主宰)の編集長。句集に『未踏』(田中裕明賞)、評論に『凛然たる青春』(俳人協会評論新人賞)などがある。


 個人的なことを書けば、2009年の夏から、私は俳誌「俳句界」向けに「期待の若手俳人」と題して10数名をインタビューし記事を連載した。そのお客様の第一回目が高柳だった(三回目が神野紗希)。そのとき私は彼の人物像として、こんな風に記述していた。実に13年も前のことだった。


  透明感ある好青年である。保守最新鋭俳人で安定した句柄の作品に感銘を受けた。ご本 

 人はもっと無頼性とか醜いものの聖性を詠いたいなど、意欲満々である。全方位に配慮し 

 た話しぶりに、誠実さと包容力と自信を感じる。今後の確かな発展を期待しているし、応 

 えてくれるものと確信している。


 前書きが長くなった。句集『涼しき無』の自選15句は次の通り。


  通帳と桜貝あり抽斗に

  ぶらんこを押してぼんやり父である

  忘るるなこの五月とこの肩車

  星光は闇払へざる氷かな

  スカイツリー見ずや冷たい缶集め

  子にほほゑむ母にすべては涼しき無

  駅前に人は濁流秋の暮

  列聖を拒みて鳥に花ミモザ

  抱きとめし子に寒木の硬さあり

  疫病が来るよ猫の子雀の子

  ぬぐふものなくて拳や米こぼす

  パンのみに生くると決めて卒業す

  ふるさとに舟虫走る仏間あり

  あれはみなしごの水筒月の川

  部屋にゐて世界見通す寒さかな


 これらに主題があるとすれば、何であろうか。私には、至らぬ自分をさらけ出し、「そこからの出発」が主題であるように思った。

 

 私が感銘した、あるいは意表を突かれた作品は次の通り多数におよんだ。(*)印は自選と重なった句である。


2016年から2019年まで

009 名をもらひ赤子も花の世の一人

013 ペンの音若葉のさやぎよりしづか

017 戸口まで蟹の来てゐる房事かな

024 日にかほをあぐれば冬の近きこと

027 寒卵世界はすでに終はつてゐる

032 鳥の餌ほどてのひらにすくふ雪

037 しやぼん玉吹く子攫はれさうな首

038 ぶらんこを押してぼんやり父である(*)

040 潮も文明麻薬も文明新樹の夜

041 忘るるなこの五月この肩車(*)

046 打水や溺るる蟻と急ぐ蟻

055 故郷の障子に声の記憶あり

058 寒菊や吾子病めば我病むごとし

060 死ぬ日まで魚は水にゐ梅白し

064 家拒む足噴水へ向かひけり

065 祭から帰り祭の話せず

067 夏雲や誰の部下ともならず生く

072 子にほほゑむ母にすべては涼しき無(*)

075 皿の桃安らぎを希ひしはずが

077 林檎食ひながら詣でよ我が墓は

080 いつかはこの父の手払へ石蕗の花

096 希死念慮黒く大きな揚羽過ぐ

099 手の中の鮎のふるへを子に渡す

100 反対者我一人去る西日かな

102 子の追へる小春日の蝶吾は見えず

103 冬雲や一人の時の無表情


2020年から2022年まで

109 抱きとめし子に寒木の硬さあり(*)

110 文弱の腕に抱く子や初写真

117 雛のかほいつか殺めし禽のかほ

119 薔薇の芽や神持たず子を愛すのみ

121 飛ぶ夢の最後は落ちてシクラメン

122 クローバの花冠と離婚届

129 熱帯夜花瓶は花の柩なり

132 子のクレヨン野分の如く父を画く

141 ぬぐふものなくて拳や米こぼす(*)

142 初鏡青年の顔失へり

143 遠きもの遠くあらしめ焚火酒

144 紙雛のひとつ置きありトイピアノ

146 さへづりや我ら亡びし夢の島

147 おのが身のどこを切つても血が蝶が

148 水草生ふ死ぬならばその腕にこそ

148 はや尽きし児童手当や桜餅

149 天が下いのち苦しき桜かな

158 蟻の巣に毒行き渡る静けさよ

160 蟻潰すいつかは我も潰さるる

160 墓欲しと土中の声やをみなへし

161 ひぐらしや死後の道ゆくランドセル

162 あれはみなしごの水筒月の川(*)

163 遊園地やがて枯野に侵さるる

165 日向ぼこしてゐてちがふここぢやない

171 子を連れて寒鴉ばかりの広場過ぐ

171 きちんと蒲団重ねてホームレスの留守

174 近づくと消ゆるきらめき春の川

178 ぶらんこの忘れものもう消えてなし


 前半には叙情豊かな作品がある。だが、2020年以降は、向日的な言葉がほとんどなく、ネガティブな表現が殖えていて、それらが主題を浮き彫りにしている。

 下手な鑑賞はやめよう。ただひとこと添えれば、掉尾の

178 ぶらんこの忘れものもう消えてなし

は次の一句を受けているように思えてならない。

038 ぶらんこを押してぼんやり父である


 あとがきに「生や死にまつわる根源的な主題に、俳人もまた向き合うべきではないか」とある。そのことに異論はないが、『究極の俳句』の第四章の「俳句は重い文芸である」に自身が書いているように、死生観や境涯などの主題は林田甲子男らの得意なテーマであった。高柳氏はもっと他の主題をも大いに書いて欲しい。死生観や境涯の重点を移すのは、それから後で充分ではなかろうか。人生はまだまだ永い。

 この句集は、高柳氏の新しい自分のための、そして俳句の文学性をより高めるための、必要不可欠な通過儀礼の一部であると、私は受け取っている。


 冒頭に句集『未踏』に触れたが、今、その句集を取り出して見たら、小川軽舟主宰がこう書いている。


  やがて高柳君は、波郷や湘子がそうしたように、青春詠の時代を遠い故郷として捨て去 

 り、見晴るかす荒地に足を踏み出すだろう。しかし、高柳君の目には、そこに私たちには

 見えない俳句の沃野が広がっているのだと信じたい。彼自身が選んだ「未踏」の句集名が

 何よりも彼の決意を示している。


小川主宰の炯眼に、私は、今更ながら驚いている。


 色々書いたが、高柳俳句の将来に対する、私からのエールである、と受け取って戴きたい。色々なことを考えさせてくれた句集でした。 

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