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高野公一著『雑談(ぞうだん)集―風の中へ』



 超一流企業の責任ある立場にあった高野公一氏が、俳句を能くし、芭蕉をはじめとする俳句評論家であることは良く知られている。そのエッセイ集である。当然、所々に俳句が鏤められている。

 内容は、生い立ち(特に戦病死した父のこと)、例年夏をすごす清里での日常、ピースボートでの世界一周の旅、芭蕉を含む俳句のこと、卓越した思想や実績を持った先達へのインタビュー記事、などから成っている(タント企画、令和五年三月三十一日発行)。

 別冊に、高野俳句への一親友からの鑑賞文を集めた『河童老人俳句問答』がある。俳句の読みには色々あり、教えられる解釈が多々あった。

 ここでは、小生にとって感銘深かったエッセイを、『雑談(ぞうだん)集―風の中へ』からいくつか選んで抄録したい。


「墓島」まで

 このエッセイから、高野氏の出自を知ることが出来た。一歳のとき、父が戦病死している。ソロモン群島の近くのブーゲンビル島であった。戦友がひそかに父の小指を焼いて、日本に隠し持ってきて、ご母堂に見せてくれたそうである。

 氏が後日、オーストラリア・ニュージーランドへ出張した帰りの飛行機の中で、ブーゲンビル島の上空近くを飛ぶことを知った。機窓越しに探したがわからない。パーサーに訳を話したら、特別に機長が許してくれて操縦室に案内された。それらしい島が珊瑚の海に輝いて見えた。特別な計らいを嬉しく思われたに違いない。

 更に後日、「ブーゲンビル島慰霊巡拝の旅」があることを知り、参加した。飛行機と舟で島に着き、ぼろ車で兵站病院と埋葬地を訪ね、読経と献花を行い、日本酒と煙草を供えた。宿舎に戻り、高野氏は日本酒の残りを飲んだ。少し酔った気分が昂じて、父と共に飲んでいる気持ちになった、とある。この精神状態は良く分かる。

  身の内の父を酔わせる新酒かな   公一

 氏の養父は、氏を大学まで上げてくれ、就職にも関係してくれたようだ。後日、母と養父をアメリカに招いて、ナイアガラの滝などを案内した、と書いてあった。ご両親にとっても、氏にとっても楽しい旅であったであろう。想像できる。


「清里日記」

 「白い花の八月」

 氏が夏を過ごす清里での日常が書かれている。その一つに清里へ向かう電車の中で読んだ半藤一利の『昭和史』の話がある。自分がその時代に生きていたならば、どんな行動をし、どんな人間だったろうか、と自問した。これは高野氏や小生の年頃の人間なら、かならず経験する自問である。戦後すぐのころ、「私は戦争反対だった」といかにもまっとうな反戦論者だった風なセリフを吐く輩が多かった。戦後初めてできた新俳句人連盟も、戦犯俳人を糾弾することが創立目的の一つだった。

 氏は「結局、自分も当時の大衆とおなじような振る舞いをしたにちがいない」と思っている、と書いている。小生も、その通りだった。


 「途中の時間」

 清里への鈍行列車の中で、アメリカの最初の小説家と言われている、ワシントン・アービングの「航海」というエッセイを、氏は思い出していろいろ書いている。別荘への移動の時間は、景色を眺め楽しみ、読書にも耽る、至福の時間なのである。

 このアービングに「リップ・バン・ウインクル」という浦島太郎のような短編がある、と書いてあった。懐かしかった。今から七十年も前である。小生の中学時代だったと思うが(いや高校かな?)、英語の教科書にこの「リップ・バン・ウインクル」があった。山の中で不思議な老人たちと酒を飲み、一夜を過ごし、村に帰ったら二十年も時が流れていた、というお話である。清里との行き来の道中も、清里滞在の日々も、リップ・バン・ウインクルの山中での一夜のように、楽しく、過ぎやすい「途中の時間」と感じることがある、と書いてあった。

 私のいまの時間も、いや人生そのものが、そんな感じがしない訳ではない。


 「星のかけら」

 清里には星が奇麗に見えるスポットがある。小生も、清里を含む「高原の星と音楽堂をめぐる旅」で経験したことがあるのだが、氏がこの小文の末尾に書いている「星の美しい夜を星月夜という。月夜のように明るい星の夜のことだ。清里ではこんな夜が多い。そして、清里に来るということは、いつでも何か根源的な神秘に出会うことにつながっている」という言葉を、小生もいま強く再認識している。


 「青い山脈」

 氏はアメリカのバーモントという小さな州で日米合弁の会社を立ち上げた。バーモントの語源はフランス語の「緑の山」であり、まさに清里もそうである。

 このバーモントにはサウンド・オブ・ミュージックのトランプ一家が移住し、その末裔が住んでいるそうだ。さらに小生が好きな画家グラン・マ・モーゼスもいたそうだ。沢山の子どもたちが遊ぶ田舎の風景画が忘れられない。百一歳で亡くなった素朴な農婦画家で、初個展が八十歳だった。好きな画家を思い出させて戴いた。


 「ほがらかに」

 ムクという飼い猫の話。元気な猫だったが、寄る年波には勝てず病院通いが増えた。吉祥寺のマンションくらしだったが、試みに清里に連れて来たら、みるみる元気を取り戻した。清里の空気をクンクン吸って弱った足取りも確からしさを増した。それからムクをバッグに入れて中央線・小海線の旅が始まった。

 その後、ムクは吉祥寺で死んだが、亡骸は清里に埋めてやった。


 「ブラッキーとブン太郎」

 ペットの話の続きである。氏が家族を帯同してアメリカのミシガン州に住んだ頃、隣家の猫のブラッキーが、頻繁に氏の家に遊びに来た。事情があって引き取るようになったブラッキーは、子どもさんたちとよく遊んでくれた。移住に伴う子供たちのストレスをブラッキーが癒してくれたようだ。

 ここで面白い記述があった。子どもさんたちは「アメリカに渡ったら目が青くなると心配して泣いた」とある。大人には分からない子どもたちのストレスがあるものだと分かった。逆に、帰国子女のストレスも大きいのでは、と想像できる。

 ペットとともに子供が成長する話は、小生自身も経験している。息子が拾ってきた仔犬ブッチ―が十数年後に死んだ。息子は一人で、供養してくれる寺を探して交渉した。いつの間にか成長した息子の行動に驚いたものである。ペットの存在がそうさせたのであろう。


 清里でのエッセイはまだまだ続くが、興味深かったのは、清里の別荘生活者同士、あるいは地元の人々との交流が、色々なイベントを通じ、楽しく描かれていることである。また、一軒屋の別荘を管理維持する苦労、たとえば、冬期間の留守に備えての水ぬきや色々な準備、庭木の景観維持、小動物侵入対策などなど並大抵ではないことをも教えられた。しかし、それを凌駕する、春から秋にかけての自然から受ける喜び、春の良き隣人との再会などなど、別荘生活の醍醐味があるようだ。羨ましい限りである。


紺碧旅行

 氏は二〇一一年一月にピースボートに乗って三か月の世界一周の旅に出た。その間の船内の出来事、上陸地の感銘などが細かく描写されている。この期間、東日本大震災があった。船には被災地出身の客もいて、親族との連絡が取れない状態が続いた。寄港地では、「日本頑張れ」の横断幕を用意し、励ましてくれた。それを見て嬉しかった人が多かったに違いない。当時「絆」という言葉がよく取り上げられたが、当該者ならではの感慨があったであろう。

 余計な心配であるが、氏は独りで出かけた。長い船旅は夫婦そろってが普通なのに、奥様は仕事を持たれていたのかもしれない。しかも見知らぬ男三人一部屋である。氏の若さに真実驚嘆した。


 「水の地球」

 横浜を出てタヒチに着くまでの二週間は一隻の船にも遭遇しなかった。毎朝日が昇り、毎夕、日が沈む。南十字星が四十五度くらいの南天に菱形に並んで見えた。小生は、アルゼンチンにしばらく国際協力の仕事で滞在したことがある。そのとき、南十字星を覚えようと努力したのだが、ついに自信をもって指し示すことが出来なかった。

 氏は、ブーゲンビル島に一番近いと思われる海に、父を思って、日本酒を注いだ。


 「反核プロジェクト」

 ピースボートの中では、政治運動が許容されるらしい。さまざまな意見交換がなされている。日本への批判もある。「核兵器を持たないといって核を持つアメリカを用心棒にする欺瞞性」とか「平和憲法といいながら軍隊を持っている」など、手厳しい。

 自国の安全保障をどうするかは、理想だけではいかない。アメリカとの同盟なしには考えられないようになってきた歴史がある・・・と小生は思う。


 「講演会」

 船はペルーに寄る。そのせいかペルーに関する文化講演会があった。地上絵の話に及ぶ。   

 小生は仕事でペルーに一週間ほど滞在したことがあるが、地上絵を観る機会も、マチュピチュへも行けなかった。ただ、インカの悲劇的な歴史と多様な文化には接した。大きな寺院の地下がカタコンベであったのもリマではなかったか。たしかサンフランシスコ寺院だった。お土産屋には男女交合の素朴な土人形が売られていた。


 「雛祭」

 船はパナマ運河を通ってカリブ海に入る。ここでも南十字星が見える。

   菱がたのサザンクロスも雛のころ  公一

 この日の夕食は、五色ナマス、若鶏八幡巻、蟹五色松葉、海老帆立、華百合根、桜華餅、菱餅、高野豆腐と里芋と竹の子の煮物、蛤と菜の花のすまし、雛ちらし、桜アイスクリームであったそうな。女性はロングドレス、男はジャケットにネクタイ。これならピースボートもなかなかだ。


 「カサブランカ」

 早朝モロッコのカサブランカに着いた。旧市街を散策し、映画「カサブランカ」の舞台に成ったハイヤットホテルで昼食をとった。

 船に戻ると、船内放送で「東日本大震災」のニュースを聞いて驚いた。


 「マラガ」

 地震の情報は断片的で、いらだちながら夜になる。深夜ジブラルタル海峡を通過する。東京に電話するが、なかなか繋がらない。結果的に東京の家族は無事であったが、奥さんはいわゆる帰宅困難者となり、銀座のホテルに泊まったとのこと。まず一安心。

 余談だが、この地震のとき小生は東京の四十八階ビルの最上階に居た。ゆっさゆっさと横揺れが凄かった。机が左右に流されるように滑った。携帯電話は繋がらず、意外だったのは公衆電話が使えたことだった。もちろん長蛇の列に並んで・・・。

 東北から参加していた人がいた。身の処し方はさまざまであった。速やかに下船して空路帰国した人。連絡はとれたものの「帰って来てもしようがない」と言われ、留まる人。まだ消息が分からない人・・・。


 「イスタンブール」

 三月二十二日、トルコは日本の震災被害者に対し半旗を掲げた。トルコも地震国だから「日本人の気持ちが分かる」とのことだった。そういえば、最近も、トルコ、シリア両国で大きな地震が起こったばかりであった。


 「海賊の海」

 船はソマリア沖を通過する。氏のピースボートと八隻のタンカーが二列に隊列をつくり、日本の自衛隊の駆逐艦が寄り添って、危険水域を過ぎるまで護衛してくれた。このための「海賊対処法」があるのだそうだ。日本人は平和に慣れているが、恐ろしい情況の地域がまだあるのだ。

 そう言えば今、スーダンの内戦のため、六十人の邦人をどうやって避難させるかを協議中らしい(結果は無事救出できた)。


 「三十八億年の記憶」

 インド洋に出た。この海は黒みがかっているそうだ。

 乗客の一人が急死した。遺体をどう処置あるいは保存するのか、小生は知らなかったが、船底に遺体収容設備があるらしく、三体までは大丈夫だとのこと。

 コロナ風邪が猛威を振るっていた時、横浜港に停泊させられていた大型客船の乗客のことを、いま思い出している。


 「朗読会」

 乗船客の一人の女性は花巻の人だった。肉親との連絡が取れず、憔悴しておられたようだ。多くの人々から励ましの言葉を戴いた。幸い家族は無事だった。彼女は、皆からもらった激励に感激・感謝し、何かお礼をしたいといって、「朗読会」を開いた。宮沢賢治の作品「いちょうの実」を、読み手は、たまたま乗船していた著名な女優に頼んだ。

 「いちょうの実」の内容は、詳細は省くが、銀杏の実が落ちるときを迎えて、その決心を語るものであった。聴衆は「震災で海に引かれて行った数多くの人々のことが、銀杏の実の子どもたちに重なって」感極まったようだった。


 「ニッポンganbare」

 マニラがこの旅の最後の寄港地である。予定外の多くの人々が下船した。放射能で汚染された日本を諦めた人々だった。フランスの女性は、両親からの再三の電話で「放射能汚染の国」日本へ行くことを止められた。彼女は泣きながら、手を振って船を下りた。

 マニラの新聞には「二千人近いフィリッピン人を日本から救うために政府専用機を飛ばす」と報じた。夜になると、大勢のフィリッピンの高校生や中学生が船に乗り込んできて、踊りや歌で日本人を励ましてくれた。彼らが作った大きな横断幕には「ニッポンganbare」とあった。


 そして「最後の夜」が来た。乗客は、これを「最後の夜」とするか、新しい「出発」とするか、決めねばならない。中には船中で生じた「男と女」の関係を終わらせるのかどうか、悩んだ客も・・・。

 氏は「世界の港を巡って来て横浜がやはり一番美しいと思う自分がいる」と書いている。


俳句・俳諧のこと

 氏が得意とする俳句の世界に関するエッセイも多い。ここでは飯田龍太に係わる部分を紹介しよう。

 「木綿の肌着」

 飯田龍太は「俳句は野面積みの石垣のようなもの」で、「無造作な、穴だらけの石と石の隙間。しかし、それは三か所できっかりと結び合って微動だにしない。かろやかに見えてどっしりと重く、木にも水にも、ましてや限りない天空との調和は無類」と言っている。

一方で龍太は俳句のことを「木綿の肌着のようだ」とも語っている。木綿は日常のものである。龍太にとって「俳句とは高邁なものではないらしい。いってみれば木綿の肌着のようなもの」「仮に何年かに一度、たまたま自分としてまんざらでもないと思われる作品が偶然生まれたときは、何やらあたらしい肌着をつけたような気分になる。これこそささやかな贅沢、あるいはひそかな自足のおもいといっていいが・・・」とある。

  一月の川一月の谷の中

 小生にとっては、この句こそがそっくり先の述懐に当てはまる作品であろう、と思っている。

 ところで龍太は、弟子の廣瀬直人を「木綿のような人」と言っていた。最高の誉め言葉であろう。


達人に聞く

 各界には、その世界に長じた達人がいる。高野氏は、幾人かの先達を訪ね、彼らの業績や蘊蓄や信念を聞き取っている。取材先は、日本動物愛護協会理事長の中川志郎氏、「レーチェル・カーソン日本協会理事長の上遠恵子氏、国際政治学者の坂本義和氏、哲学者の木田元氏、和光大学名誉教授の岸田秀氏、遺骨収集活動に尽力した松谷希次氏であった。小生は、現役のころ環境問題を仕事の一部としていたため、カーソン女史の『沈黙の春』は精読したものである。

 ここでは一介の市井人でありながら、遺骨収集活動を通じて「英霊と遺骨に向き合った」松谷希次氏を、高野氏が取材した際の記録を紹介しよう。


 「ブーゲンビル島・遺骨収集・鐘と観音」

 九州の延岡に観音像があって、はるか南洋の島を向いている。これを建立したのは、延岡の近くの北川町に住む松谷希次氏であった。彼は六人兄弟の一人で、口減らしのため、尋常小学校を出るや延岡に丁稚奉公に出された。玄関に寝起きさせられ、早朝から雑巾がけ・・・まさに「おしん」であった。

 昭和十九年、松谷氏は南方派遣の命を受け、ラバウルを経てブーゲンビル島に上陸した。米軍とオーストラリア軍の反攻が激しさを増していた。敵軍に包囲され、約八万の将兵のうち六万人が戦病死した。昭和十九年一月、彼は分哨長となって敵陣前方警戒任務に当たっていたが、艦砲射撃を受け、破片が足首を貫通し、歩行できなくなってしまった。敵陣近くに放置されたが、自決寸前救助された。

 そこから百キロ離れた兵站病院まで、担架で運んでもらった。四人の戦友が担いでくれた。他に一人が前方のジャングルを切り開く役、もう一人は装備を持つ役。六人に助けられた。昼はジャングルの暗闇を、川は夜渡ったそうだ。「途中放置されればそれは私の死でした」と述懐している。

 奇跡的に日本に生還した松谷氏は、地元の郵便局に三十三年務めるが、ジャングルで助けられたことを忘れない。五十七歳で退職し、残された人生を戦友の遺骨収集と慰霊に専心しようと決意する。その時彼を助けた戦友はみな物故していた。それが悲しかった。

 数回の遺骨収集の旅なら理解できる。だが、松谷氏は、爾来二十年以上かけて、二十六回もブーゲンビル島やソロモン群島に行っている。内戦状態があり渡航禁止期間が十一年あったし、胸部手術による入院もあった。その中での二十六回とは、凄すぎる。

 「埋葬地から頭蓋骨を掘り出すときは、何度経験しても息が詰まり、突き上げてくるものを抑えることが出来なかった。水はけのよいところは手に硬く、そうでないところはゆっくり掘り出さないと崩れてしまいます。あの時あの人たちに助けられなければ、これが自分であったのだと思いました」

 遺骨は千鳥ヶ淵戦没者墓苑に納められ、式には皇族、総理大臣らが臨席した。

 収集には現地の酋長に世話になった。家にも泊めてもらった。近くに小学校があり、松谷氏は行くたびに鉛筆やわら半紙などを持って行った。昭和五十七年、この学校に鐘を寄付した。昭和六十二年、激戦地に観音像を建てた。これは長期の内戦で破壊されてしまった。

 遺族たちは老齢化し、現地には行けない。今度は、現地とおなじ観音像を延岡に建立した。一月二十三日、松谷氏が被弾した日、毎年戦没者追悼式が開かれ、全国から五十名ほどが集まるそうだ。


 感激のあまり、抄録のつもりが意外に長くなった。


 『風の中へ』の全編を、興味を持って読ませて戴いた。小生も氏と同じ時代を企業戦士として生きてきたせいか、深く同調できる部分が多かった。知的好奇心を満足させてくれるエッセイであり、人間とは何かを考えさせてくれる著作であった。感謝です。

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