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黒川悦子著『子規の小函』

 


 黒川さんは正岡子規研究の第一人者で、子規研究の会・会長半田美永氏の序文によれば、「内藤鳴雪研究―子規と歩んだ俳句活動―」により、博士号を授与された、とある。かかる研究者であると同時に、「ホトトギス」同人で、かつ、「円虹」(故山田弘子が前主宰・現主宰は佳乃氏)の創刊に参加したように、俳句の実作者でもある。

 該著『子規の小函』は、子規の作品四十一句にかかわる鑑賞文(前半部)と、子規および子規周辺の俳人に関わる「評論」から成っている(後半部)。令和五年三月三十一日、文學の森発行。

 鑑賞されている四十一句には、いわゆる人口に膾炙する子規句が、僅か一句〈柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺〉しかない。小生としては。巷でいろいろ議論されてきている著名句、

  鶏頭の十四五本もありぬべし

  いくたびも雪の深さを尋ねけり

  糸瓜咲て痰のつまりし佛かな

などについての諸説を鮮やかに整理して示して戴き、目から鱗の結論を期待していたのであるが、この種の興味は、子規研究の専門家には、とうに卒業されたもののようだ。人口に膾炙していなくても、研究者にとって重要と思われる子規作品に絞って、論じているのである。その意味で、該著は入門書のレベルを超えた研究者向けの著作であるようだ。もちろん、小生のような巷の子規好きにも、目から鱗の記述が沢山あったことは嬉しいことである。


行き届いた調査

 句の鑑賞のための調査は、膨大な書簡類を含む机上の文献調査だけでなく、いや、それも詳細を極めていて感動するのであるが、いまはもうなくなった子規関連の施設をも実地に踏査し、その丁寧さはじつに念が入っている。


著者黒川氏逝去!

 その黒川氏が、この一月に句集『若葉風』を文學の森から上梓され、好評を得た。そのあと該著を三月三十一日に出され、何と、翌四月二十六日に逝去された、とあって、わが目を疑った。令和五年の「俳句界」九月号に追悼特集が組まれている。驚きである。心からご冥福を祈る。


 前書きが長くなった。まず前半部の「俳句の小函」から紹介したい。子規の四十一句を論じている。中から興味ある鑑賞を抽いてみよう。


俳句の小函(子規句の鑑賞)

雪ふりや棟の白猫声ばかり

 あまり知られていないが、子規の最も古い句であるそうだ。その点で貴重である。郷里の友人あての書簡にあった、という。

 一般に、俳句鑑賞態度としては、作品を作者から切り離して独立したものとして味わう場合と、作者の生い立ちや他の表現活動をも含めて味わう場合がある。著者黒川の態度は後者だとはっきり断っている。その立場が全編に貫かれている。

 掲句は、雪の少ない松山から東京に来て、雪が珍しかったのであろう。ありふれた着想だが、一面の銀世界をみた驚き・感動が素直に詠まれている、とは黒川の言。俳句初学の子規の句として意義を感じて、黒川はこの句を冒頭に選んだのであろう。

  茶の花や利休の像の饗応しに

 この句は、子規が大原其戎主宰の俳誌「真砂の志良辺」に投句掲載されたもので、大原は旧派の俳人である。子規と言えば旧派を目の敵にした感があるが、必ずしもそうではないと知って、小生は嬉しかった。子規が大原を敬う態度はずっと変わらなかったと書かれている。なお、この句は〈茶の花や利休の像を床の上〉と推敲されて「寒山落木一」に収録されている。この句の方が、出来が良いとの黒川評だが、小生も全く同意。

 ところで、このとき子規は俳号に「丈鬼」を用いたとある。知らなかったが、本名の正岡常規の「常規」を音読すると「じょうき」となるので「丈鬼」としたようだ。なお、大原其戎主宰の俳誌「真砂の志良辺」は月刊誌としては全国で三番目の結社誌であるようだ。別件だが、明治二十年、子規は松山に帰った時、半紙一枚に十句ほど俳句を書いて大原其戎のもとを訪ねた。同行した柳原極堂は「徐に紙面に目を通した後、『至極結構に出来てゐます』と簡単な会見であった」とある。子規自身も、其戎翁を「八十歳に近い上品な老人で、懇切丁寧な対応の中にも威厳があった」と述べ、後々まで投句している。子規が旧派を毛嫌いしたという一般論は訂正されねばなるまい。

  秋風や窓の戸うごくさよ砧

 なんと、この句は国名を三つ(実は四つ)詠み込むことを決めて作られた。小生には、座興のようにみえる句であるが、仲間内の訓練の意味もあったのであろう。この句、平仮名にすると分かるのだが、安芸、大和、能登、羽後の四国名が詠み込まれている。子規は大和(や窓)に気が付かなかったようだ。。

  凩や荒緒くひこむ菅の笠

 私見だが、この句は小生にはよく出来た句だと思えた。前の句群よりも、子規の写生重視の俳句理論に則っているような句がしたのである。それもそのはず、明治二十四年の武蔵野の旅により、小手先の技巧をこらさずに俳句に取り組んだとある。なるほどである。ただし、子規が中村不折の西洋画的写生法を学ぶのは、明治二十七年である。

  笹の葉のミだれ具合や雪模様

 この句の議論のとき、虚子が子規に、「漢詩・和歌・俳句のいずれが広くかつ永遠におこなわれるか」、という意味の問いを発している。これに対し子規は「歌、発句ともに永久のものに非ず(特に発句は明治に尽きるべきもの)」と答えている。黒川は、俳句の早期絶滅が子規の予想に反し、そうならなかったことに安堵している。

 ここからは余談である。確かに現在の俳句は、発句ではなく平句が殆どである。それを以てよしとしている現状ではあるが、俳句は滅びてはいない。子規の予測が外れたことを黒川同様、小生もよろこんでいる。ただし、子規の予想は、俳句(発句)よりも短歌が先に滅びると予測していた、と記憶している。手元に『子規全集』がないので確認できないが、彼の俳句短歌滅亡説は、数学の確率論を信じたが故であり、明治の末には短歌は亡ぶであろうと、予言した。短歌は三十一文字が許されるが、雅語しか使わないから、言葉の組み合わせの数が十七文字の俳句よりも少なく、したがって寿命は俳句よりももっと短い、と書いていたように記憶している。論考に影響はありませんが、思い付きで寸言を付しました。

  袴きて火ともす庵や花の春

 「花の春」が新年の季題であることを教わりました。多謝です。「花のように美しい新春」と理解すべきなのでしょう。古くから使われてきたらしい。近代では〈草の戸にひとり男や花の春 村上鬼城〉がありました。決して桜が咲いているのではない、と知りました。

  白牡丹ある夜の月に崩れけり

 季題は白牡丹(夏)。月は年中夜空にある月。黒川は「ある夜」が漠然としている、とやや不満な様子。小生も同感。ただしこの句は、そのような事のために引用したのではない。芭蕉があまり読んでいない牡丹を、蕪村が『新花摘』で沢山詠んでいる。それが素晴らしかったので、子規も挑戦したのである。合計百二十五句あるそうだ。実に多い。

  わびしさやゐろりに煮える榾の雪

 明治二十六年冬、子規庵での句会。参加者六名だったが、椎の会のメンバーであった。この会は各自の作品を互選方式で自由に合評する方式だった。いま我々が普通にやっている句会方式がここで生まれたのである。ところでこの日は、運座が三回開かれ、第一回目は年玉など十題、二回目は紙衣など十二題、三回目は皸など十二題、合計三十四題で、おそらく深更に及んだのではなかろうか。

  松島の心に近き袷かな

 子規は芭蕉の「おくのほそ道」を慕って、明治二十六年七月「はてしらずの記」にある東北行脚を試みる。芭蕉には一言ある子規ではあるが、やはり松島に近づくと心が芭蕉に寄り添ってくるのであろう。病んだ身での旅である。色々な思いが去来する。

 さて、この句「松島」の「松」に「待つ」を重ね、「袷」に芭蕉に合わせるの「合わせ」を駆け言葉として、黒川は読み取っている。小生はそこまでは読み取れなかったし、むしろそんな風に読みたくない感じがある。

  杖によりて町を出づれば稲の花

 明治二十八年。日清戦争の従軍記者として出かけたが、帰国船の中で喀血し、瀕死の状態で神戸病院に入院。小康をえて須磨に移る。三ヶ月ほどの加療のあと八月二十五日、松山に帰ってきた。二十七日に漱石の愚陀仏庵に移っている。俳句の仲間が大勢集まる。はじめて杖をついての外出吟行である。たんたんと詠っているが稲の花が美しかったであろう,とは黒川の言。

  柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

 明治二十八年。ようやく超有名句が出てきた。松山から東京へ出るルートは、二十二年七月の東海道線全線開通以降は三津浜から神戸、あとは汽車であった筈。この年だけは奈良に足を延ばしている。ところでこの句、漱石の類似句が建長寺だったりするが、子規が実際に詠んだのは東大寺の鐘とのこと。フィクションである。須磨での療養を見舞ってくれた中村不折が奈良に行くと言っていたのに刺激されて足を運んだのであろう。その甲斐あって、子規は奈良を絶賛してる。そうして名句が生まれた。  

  寝て聞けば上野の花のさわぎかな

 明治二十九年。この句の一か月前に病名がリウマチではなく、脊椎カリエスであることを告げられた。医師の告知に絶句している。それにしては明るい句である。それがかえって悲しい。

  椅子を置くや薔薇に膝の触るゝ処

 日本種ではなく多分西洋風の「薔薇」であろう。維新後、薔薇の輸入が多かったようだ。膝に降れる至近距離まで椅子を近づけ、愛でている。

  見送るや酔のさめたる舟の月

 明治三十一年。これは虚子との句合わせの句。虚子は〈ともし火に月さしこむや草の庵〉を出し、判者は碧梧桐が務めた。碧梧桐は子規の句に「訴えて来るものがないのは大いなる欠点」と容赦ない。子規はこの句に落ち着くまでの経緯を縷々述べている。だが、虚子句が勝ちとの碧梧桐の判定に、黒川は同意している。小生も然りである。

  枯菊の記を書きに来よふき膾

 明治三十二年。これも句そのものよりも、子規の周りで「文章会」が盛んになることにかかわる作品である。坂本四方太に宛てた書簡の末尾に附した句で、「只今拙宅で虚子青々来会。文章会を開きふき膾を饗し候間、日の暮れぬ内に宙を飛んで御出被下候」とある。この日、十一月二十二日が「文章会」の始まりの日で、「枯菊の記」を書いたのであった。子規逝去後も文章会は続けられ、「山会」として今でも残っているようだ。


 

評論(子規および周辺の俳人に関する俳論)

 次に評論の部に移る。子規ら日本派が蕪村を研究し始めた状況を、黒川氏が論考しているので、その部分を紹介しよう。

 子規が蕪村を高く評価したことは良く知られており、その事が、俳句改革の足掛かりになったことは子規の一つの功績である。該著の「『蕪村句集講義』についての一考察」の項に、この辺の事情が述べられている。

 明治三十一年一月から子規の周りで『蕪村句集』を一丁ずつ輪講・合評していたのだが、この『蕪村句集』を手に入れるまでの苦労話が面白い。明治二十七年頃から蕪村を重要視しはじめていたのは子規であったが、実は彼一人だけではなかった。競合者がいたのである。その証拠に、二十九年には三森松江編『蕪村句文集』、松窓乙二注釈『増訂蕪翁句集』が、三十年には、秋声会校訂『頭注蕪翁句集拾遺』が、さらに同年大野酒竹著『与謝蕪村』、阿心庵雪人編の『校註蕪村全集』がぞくぞくと発刊されているのである。蕪村再評価の先陣を切っていると信じていた子規としては、心穏やかではなかったであろう。

懸賞付きの蕪村探索

 明治二十六年頃、子規や内藤鳴雪らは盛んに運座を持ち始めたが、その席上で「蕪村の俳句がうまい」との評判だった。だが、蕪村の俳句については断片的な知識しかなかったので、全貌を明らかにする『蕪村句集』を探す必要があった。そこで鳴雪が中心となって、懸賞付きで探すこととなった。以下は「子規と鳴雪」などの項に詳述されているので、抄録しよう。

 その懸賞を得たのが片山桃雨であった。しかし、片山の発見した『蕪村句集』は「蕪村の句の僅かばかりを集めた写本」とわかり、鳴雪らはなおも探索を続けた。そのうち、つねづね俳論をやり取りしていた仲の京都の村上霽月が、鳴雪の知らない蕪村句をたびたび挙げていることを知り、村上が『蕪村句集』を持っているに違いないと推察した。

 鳴雪は村上に書簡を書いている。その書簡には通し番号が付けられていた。その一号は明治二十六年七月三十日、十号が同年九月十五日である。第六号の八月十五日には、……あなたが『蕪村句集』を持っていると知り、羨ましい。近く京都在住の知人をあなたのもとに伺わせるので……と伝えている。幸い借りることが出来た。がしかし、願いもむなしく村上所有の『蕪村句集』は上巻だけであった。

 別のきっかけで、東京の芝の日影町の村幸店に、蕪村句集の上下揃ったものがあるらしいと知り、鳴雪は人力車で駆け付けた。途中、誰かに買われてしまうのではないかと、気が気でなかった。その店に着くと「まだある」ということで、天にも登るうれしさであった。価格は二円。その頃では相当な奮発であった。帰ってすぐ目を通し、その日のうちに子規氏へも報せた、とある。

 子規が『蕪村句集』を目にした日については、多くの人々が書簡類や文献から、明治二十七年一月中旬であろうとしている。しかし、著者黒川は、子規が新聞「日本」(明治二十六年十二月二十三日発行)に、いままで子規らが知らなかった蕪村の次の句が載せられていることから、多くの論者が推察している時期より一か月早い、明治二十六年十二月には『蕪村句集』を子規は目にしていた筈だと書いている。

    笠着て草鞋はきながら

  芭蕉去て其後未だ年暮れず  蕪村

 ごくささやかな事実の究明に過ぎないかもしれないが、真実を丹念に追及する姿勢に、小生は感動を戴いた。なお、掲句は、蕪村が芭蕉を敬愛していたことを明快に示している句でもあり、興味が尽きない。

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