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伊丹三樹彦三回忌追善『伊丹三樹彦の百句』







 九十九歳で亡くなられた伊丹三樹彦さん。温顔を思い出すたびに、尼崎の塚口を訪ねたときのことを思いだす。玄関には三樹彦さんそっくりの人形が飾られたいた。訪問の最初数回は公子夫人にもお目にかかった。

 該著は伊丹啓子さんと「靑群」同人が手分けして執筆された(2021年9月21日発行)。

 小生には懐かしい三樹彦さんの百句だが、中から次の一句を抽き、まず、啓子さんの鑑賞をそのまま再掲させて戴きます。


026 弟子貧しければ草城病みにけり


昭和二十五年作、第二句集『人中』所収。昭和十二年、日野草城主宰の「旗艦」で選を受け始めてより伊丹三樹彦のペンネームを仕立てた。以来、三樹彦の俳句の師は草城だけである。昭和二十四年、草城は主宰誌「青玄」を創刊。草城膝下の「まるめろグループ」の三樹彦らも合流する。昭和二十一年一月末、草城は社から帰宅した後高熱を発した。肋膜から肺浸潤症を併発し、以後十年間の病臥を余儀なくされた。「青玄」の編集業務を一任された三樹彦は、伊丹から池田の「日光草舎」まで度々原稿を持って往復した。当時の日本の状況は焼け跡闇市からの復興は遂げるも高度成長期の前である。大方の日本人は貧しい暮らしに耐えていたのである。『人中』巻末の解説で、詩人で作家の足立卷一が「ありふれた日常のことばが、身をよじるような悲しみを発条(バネ)として言霊に化している。師の病患をも自己の貧のゆえとしたような詩がほかにあるだろうか」と絶賛された。作者に「病める草城に」の題で〈師よ癒えよわれらいちづに句を作(な)さむ〉の句もある点からして、掲句の〈貧しければ〉は経済的な貧しさでなく、弟子たちの文学的営為が不甲斐ないから、という意味かも知れない。


 感動的な解説である。解説の通り、詩的な「貧しさ」を言ったのかもしれないが、当時はみな、つくづく、貧しかった。とまれ「日光草舎」は、後年虚子が訪問し、草城の同人復帰を伝えた場所でもある。俳句史に残る名場面であったようだ。その時の草城の句について、私は三樹彦さんから直接こう聞いている(拙著『昭和・平成を詠んで』より抜粋)。


 筆者は、平成二十七年二月、尼崎市の氏のご自宅を訪ねた。とても異端児や革新児のようには見えない人懐こい振舞の髭の豊かな氏であった。こまごまとした世事を超越し、好きな俳句に、残る人生の全時間を捧げている三樹彦氏に、斯界の大先輩としての、歯に衣着せぬ俳論を伺うのが目的であった。

――まず手始めに師であられた日野草城について伺います。草城が虚子に破門され、その後許されますね。一般には、草城が涙ながらに喜んだ、となっていますが、実際はどうだったんでしょうか? 内心許されなくとも……という感じはなかったのでしょうか。ごくお近くに居られての印象は?

三樹彦 喜んでおられましたよ。そのときの句に、「虚子先生を草舎に迎ふ」との前書きつきで三句ありますよ。

  新緑や老師の無上円満相

  先生の眼が何もかも見たまえり

  先生はふるさとの山風薫る

   (筆者注 三句目には啄木の短歌を引いて「ふるさとの山にむかひていふことなしふ  

    るさとの山はありがたきかな」との前書きがある。)

三樹彦 俳句に関する考え方の違いはあっても、師は師であるとの気持が強く、感激の対面だったですね。

   (筆者注 昭和十一年十月、三十六歳で「ホトトギス」を除名された草城は、約二十  

    年後の昭和三十年一月、五十五歳にして、再び同人に推されている。阿部みどり  

    女、長谷川かな女ら四十七名の一人とし、草城もこれに加えられたのである。推挙  

    の「社告」には虚子の次の一節がある。)

 「今度又、新に同人に推薦したのは、曾て推薦すべく或る事情でしなかった人、又一度同人であった人が、或る事情でさうで無かった人、等を推したのである。併し後に言った方は今更といって快く思はない人があるかもしれん。さういふ人があれば早速取消す。現に推しても多分迷惑であらうと推量した人は推さなかったのである」

三樹彦 俳句観は俳句観として、師は師として、草城はそう受け止めていましたね。特に無季俳句を容認する考えは変わっていませんね。私もね、俳人協会元会長の安住敦や幹部の岸風三楼らに協会に参加するよう直接慫慂されましたが、会規として無季俳句を作るものは入会御免でしたから、参加しなかったんですよ。              引用終り


 該著をお贈り下さった、伊丹啓子、矢野夏子、LEE凪子さんに、厚くお礼申し上げます。

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