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堀田季何句集『人類の午後』






 堀田さんが句集『人類の午後』を上梓された(邑書林、2021年8月6日発行)。氏は「吟遊」「澤」各同人を経て、現在「楽園」主宰。芝不器男俳句新人賞齋藤愼爾奨励賞、澤新人賞を受け、現代俳句協会幹事。歌人でもあられる。

作品は正字表記されている。小生は正字に疎いので、引用には、一部俗字が混用されていて、著者の意図に背いているが、寛恕願いたい。

 この句集は編年体ではないと思われる。各章の冒頭に国際的な古今の著名人の名言や小民族・小国家の格言・俚諺などが置かれており、その章の俳句は、それをベースに読み取って欲しい、ととれるように書かれている。それぞれの章の俳句は連作的であって、自然に誘導されるがごとく読んで行くことになる。一冊が纏まって「堀田季何」という一つの読みものなのである。

 一読して、容易ならざる句集であると感じた。メッセージ性が極めて強い。これに較べると、私が日頃詠んでいる句は、まさに消閑の具であって、能天気この上ない。大いに反省させられた。

 栞が挿入されており、宇多喜代子・高野ムツオ・恩田侑布子という錚々たる書き手によるものである。あとがきには「堀田家の殆どが廣島の原爆に殺されている事や私自身が幼少時から國際的な環境で過ごした事は、人間觀に少なくない影響を及ぼしている」と正字を用いて書いている。だから関心事は、周囲では、従軍、戦闘、引揚、原爆、後遺症、国際的には、東西冷戦、アパルトヘイト、アラブ、ユダヤ対立、中台関係、ユーゴスラビア紛争、香港返還、アメリカ同時多発テロ事件、さらに凶悪な人種・宗教・性差別等であったという。


 小生の共感句は次の通り(原典の通り、できるだけ正字を使ったが、一部違反している。その部分はで示した)。


007 戰爭と戰爭の閒の朧かな

009 塀一面彈痕血痕灼けてをり

011 息白く國籍を訊く手には銃

013 テロリスト順次集合聖樹

044 基地拔けて倭(やまと)の蝶となりにけり

049 閉館日なれば圖書みな夏蝶に

050 蠅打つや自他の區別を失ひて

055 みな聖樹に吊られてをりぬ羽持てど

058 クリスマス積木を積むはすため

062 階段の裏側のぼる夢はじめ

062 福笑絶望の表もあれ

067 とりあへず踏む何の繪かわからねど

068 スターリン忌ポスターの下にポスター

070 涅槃圖のものことごとく死に絶えき

073 にせものの太陽のぼるあたたかし

074 草摘むや線量計を見せ合つて

081 金魚みな脂乘る水換へたれば

085 亂想ののちの亂心螢籠

090 香水(パルファン)を一振り詫びにゆくときは

091 星涼し聖母の顏は畫家の妻

092 わが柩がらんどうなる涼しさよ

097 野良犬の野犬に還る靑山河

109 アーリントン國立墓地を穴惑

110 大海は大河拒まず鳥渡る

113 新酒酌む年収順に座らされ

123 死者たちの投票用紙落葉焚


 いくつかを、ごく私的になるが、鑑賞しよう。


007 戰爭と戰爭の閒の朧かな

 歴史上の戦争と戦争のあいだの年月は、見かけは平和だったが、それは朧に過ぎない。歴史を俯瞰して得た諦観にも似た一句。このブログの末尾に、十年前の記録を掲載したが、堀田さんがそのころから歴史を意識的に透視していたことが分る。


011 息白く國籍を訊く手には銃

 極めて私的な鑑賞になるが許されたい。ウイーンの国際機関で働いていた時のこと。当時はテロ集団がアメリカを目の敵にしており、ハイジャックが頻発していた。彼らは乗客のパスポートを提示させ、国籍をしらべ、アメリカ人と分かると脅迫の対象に選んだ、という。私の友人はすぐに米国発行の旅券を座席の下に隠し、同時に持っていた国際機関発行の旅券を提示した。それで事なきを得たという。平和に慣れた日本人には思いもつかない危機管理の一方法であった。011の句から、私はそのことを思いだした。そして、そのような状況に出会わなかったことを感謝した。


013 テロリスト順次集合聖樹

 テロリストは通常は異教徒かも知れないと考えれば、聖樹は飾らないはず。とするとこれはアメリカやヨーロッパの大都市が舞台であろう。テロの集合場所に、彼らからすれば邪教のシンボルである聖樹を指定した。強烈なアイロニーである。


044 基地拔けて倭(やまと)の蝶となりにけり

 沖縄の基地を思った。蝶は自由にフェンスを抜けて飛んで来る。抜けっところで蝶は初めて日本の蝶となるのだ。


055 みな聖樹に吊られてをりぬ羽持てど

 小さな天使の人形がツリーにぶら下げられている。羽をもっていても自由に飛べない天使への思い・・・というよりも、そうしてしまっている人間の行為への反発であろうか。氏の作品には物事の裏を詠んだものが多い。屈折と抗議を感じさせるものが多い。


062 福笑絶望の表もあれ

 これもその一つ。「福笑」といいながらも、目鼻口の置かれ方で、苦痛や悲嘆や絶望の表情になることもある。幸せな面よりも、そちらの方に堀田氏の目は向いてしまうのである。


091 星涼し聖母の顏は畫家の妻

「聖母」の絵は模写されたもの、モデルを使ったものなど様々であろう。しかし、画家にはモデルを雇えるほど豊かでない場合もあろう。妻がモデルだったことが多いかもしれない。ユニークな気づきである。「星涼し」が、この句では救いである。


109 アーリントン國立墓地を穴惑

 ワシントンDCからポトマックを渡ってすぐのヴァージニア州に、手入れの行き届いた広大な緑の芝生、整然と並べられた真っ白い墓標、画一的な「美」ともいえる景である。そこに穴まどいの「蛇」を這わせた。意外な取り合わせである。これも氏一流のアイロニーか?


113 新酒酌む年収順に座らされ

 社内会議か何かが終わって、新酒を戴く機会があった。お偉方を囲んで偉い順に座っている。その席順は、まさに年功序列的で、言い換えれば、「年収順」であるように、作者は見た。鋭い洞察であり、皮肉でもある。しかもこれは日本独特の状況である(イタリア系のマフィアにもあるかも)。アメリカでもフランスでもこんな状況は稀であろう。トップが才気あふれる若者だったり、女性だったりする。年寄りが末席近くにもいる。小生のフランスの仕事相手のトップはエコール・ポリテクニーク卆の若者だったことを思いだした。


 とまれ、該句集から、小生は強い刺激を戴いた。厚くお礼申し上げます。


余談 十年前を振り返って

 堀田さんに初めて会ったのは十年前になる。小生が雑誌「俳句界」向けに、「話題の新鋭」と称し、若手俳人を広く世に紹介するというという企画を提案し、インタビュー記事を連載したことがあった。活動活躍だったお客様の初めは高柳克弘氏、三番目が神野紗希さんだった。その最終回に、東大俳句会のメンバーを中心にした集団インタビューを載せた。その中には生駒大祐・高崎壮太・野口る理・福田若之・村越敦らの皆さんとともに、堀田季何氏がおられた。インタビューの堀田氏に関連する部分だけを抜粋して、紹介しよう。


堀田 私は皆さんと少し違って、アメリカの大学を出まして、帰国してから、明治時代に外国人が日本へ来て浮世絵にショックを受けたと同じような感じで俳句を始めました。吟遊俳句会、世界俳句協会に入り、俳句の多言語実作と翻訳に注力しています。東大の院生です。自選句は、

   戦争と戦争の間の朧かな

です。戦争と戦争の間のひとときを平和というのでしょうが、今の日本の平和は、過去の戦後と将来の戦前の束の間の時間帯で、充足による安心感と漠然とした不安感が若い世代を支配しています。生ぬるい空気、不透明感、平和呆け、思考停止・・・まさに朧です。芝不器男賞(齋藤愼爾奨励賞)の際お褒め戴いた句です。

 中高の授業はすべて英語でしたから、文語などはもちろん全く知らず、一から勉強し直しました。藤田湘子さんの俳句の作り方の本が参考になりました。友人の縁で「澤」に入り勉強しています。

栗林 皆さんが指向する俳句はどんなのでしょうか? 伝統・前衛とか右とか左とか、画一的に分けるのは良くないでしょうが・・・。もっぱら無季を作っている方は・・・? ああ、おられませんね。逆に絶対作らない方は? 

堀田 私はわりに作る方です。

栗林 ところで、震災を詠むとき有季・無季で、向き不向きがあるような気がしませんか?

堀田 丁度桜の季節の前でしたから、無理なく詠めましたが、遺体とか悲惨さにフォーカスして、リアルに詠もうとすると季語は難しいですね。「津波」や「戦争」などという言葉は季語同等あるいはそれ以上に大きく働く言葉ですから・・・。俳人として俳句で震災を詠めないとしたら敗北です。短いから言えないというのは如何かと思います。

栗林 左か右かの話題に戻りますが、皆さん結構伝統重視でしかし縛られないっていう感じですね。

堀田 私はけっこう左です。たとえば季語を教条的には考えません。季語相当の大きい言葉があれば、俳枕でも大いに遣うべきだと考えます。定着していない新造季語より力があるのではないでしょうか。私は「澤」にいますから、小澤先生のストライクゾーン目掛けて投げます。でも、自分が納得するならば、スレスレを狙いますね。そして信頼する先生の意見を聞こうとします。先生は無季も認めますが、難しいから覚悟がないとダメだって仰ってます。

栗林 最近「俳句のようなもの」っていう評があるでしょう。この評の根底には今の若い人びとの考え方を心配している先輩たちの気持があるんじゃないかなあ。俳人にとってはまず「感性」が大切ですが、厳しい「修練」で以って初めて表現が可能になるものがあるでしょう・・・。

全員 修練の大切さって分ります。結社に入ってないからって、修練していないわけではありません。今の言葉には差別的な匂いがあります(笑)。修練の形が違うのかなあ? 修練の途中ではありますが・・・(笑)。

堀田 結社にいる自分も修練の途中です。ですが「俳句のようなもの」っていう評は如何なものでしょう? 歴史的にみればいつだってあったんです。 私は学校で、「俳句とはこういうものだ」って教えるのは如何なものかって思っています。ルールを全体のものにしようっていう匂いがする。色んなのがあるよって教えるべきですよ。

栗林 ところで、皆さんは俳句で何をしたいんでしょう?

堀田 認識の瞬間を詠みたいです。対象は宇宙です。「宇」は空間で「宙」は時間です。未来を含めて歴史空間の中の事象のある瞬間を詠みたい。よく動作の瞬間を詠むのが俳句だって言われますが、認識の瞬間です。佐渡の荒海と出ていないはずの天の川を認識して詠んだ芭蕉のあの名句がサンプルです。素材は何でも良い。

栗林 各自の俳句の指向するところを訊いたわけですが、ひょっとすると、好きな俳人の名を挙げて戴いたら、指向する方向がもっとはっきりするかも知れません。芭蕉でも近現代の俳人でも、誰でも良いですから、学びたい俳人を挙げて下さい。理由もね。

堀田 私には大勢いるんです。見える世界と見えない世界を繋いだ人。川端茅舎、高屋窓秋、中村草田男、野見山朱烏、富澤赤黄男、永田耕衣・・・伝統から前衛までいろいろです。


 このあと、すぐ近くのビルで開催される東大俳句会月例句会に、希望者だけが参加した。当夜は、有馬朗人さん、岸本尚毅さんの他OBも参集し、総勢十四名であった。ここで、堀田氏は次の句を出され。四点獲得した。しかし『人類の午後』には入集されていない。

   夕虹の後ろ向きなる西麻布 

  

  平成二十三年六月三十日 銀座ルノアール会議室及びグローバルコロキュアムにて

                            (JR東京駅八重洲口)

                                   以上

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