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日野百草著『評伝 赤城さかえ―楸邨・波郷・兜太に愛された魂の俳人』




 日野百草さんが「赤城さかえ論」を書かれた(2021年7月4日、コールサック社発行)。氏はノンフィクション作家で多くの賞を受けられ、俳句でも「玉藻」(星野高士主宰)、「鷗座」(松田ひろむ主宰)の同人で、句集・俳論なども多い。

 赤城さかえといえば『草田男の犬』を書いて、論争を巻き起こした……いや、巻きこまれた人である。ご存じない方々にほんの少しだけ説明すれば、草田男が昭和15年に

  壮行や深雪に犬のみ腰をおとし    中村草田男

を詠んだのだが、この句の解釈をめぐって揉めたのである。

 赤城さかえは、この句を「この句の功績は、何と言っても、人々が熱狂してゐる喧噪の中から、深雪に腰を下ろしてゐる哲学者〈一匹の犬〉を見出した作者の批判精神である。(略)何度も出征風景に接し、何度も考えさせられ、何度も煩悶し、何度も思想する――そういふ集積の果てに〈一匹の犬〉が現れるのだ。(略)何故かと言って、出征風景に憤り、絶望し、憂慮しただけでは〈草田男の犬〉は決して現れて来ないからだ。戦争に対する懐疑とか否定とかはありふれたことである。その程度の思想の位置は確かに陳腐そのものだ」と評して、草田男の文学性を高く評価した。好戦・反戦を超えた文学性を読み取ったのである。

 実は、戦後すぐに新俳句人連盟が栗林一石路らにより創設されており(偶然姓名が小生栗林と同じですが、関係ありません)その連盟の仕事の一つは、戦前・戦中に著名俳人が戦争に加担したという事実を徹底的に暴き、彼らの俳人としての生命を断つことにあった。草田男や楸邨の名前も戦争犯罪人として挙げられており、連盟の攻撃の対象になっていた。この連盟に、さかえが入会したのは昭和22年で、この「草田男の犬」論は連盟の機関誌「俳句人」の同年10,11月号であった。連盟の主力には、俳句弾圧事件でひどい目に遭った人たちがいて、彼らは、この草田男の句を戦意高揚の句として読んでいた。したがって、さかえの論は受け入れがたかった。

 血気盛んな反対者は芝子丁種(しばこていしゅ)・古家榧夫・島田洋一らであり、彼らは連盟内にあっては急進的左翼であった。俳句弾圧事件で徹底的に痛めつけられた俳誌「土上」のメンバーで、伝統派に属する著名俳人に対する敵愾心が非常に強かった。

 さかえは、彼らの論調を「左翼的幼児性」と呼び、文学性の観点から、強く草田男を続けて擁護した。敵は沢山いたが、さかえには高屋窓秋や志摩芳次郎くらいしか味方がいなかったようだ。芝子らに対するさかえの反論は「俳句人」に掲載を拒否され、志摩が「現代俳句」を世話したようだ。


 赤城さかえ(本名藤村昌。東京帝国大学文学部卒、父は国文学者藤村作、姉妹も大学教授夫人)はブルジョア階級に育ったが、共産党入党。熱海事件に巻き込まれ逃亡し逮捕され投獄。転向により釈放(24歳、昭和7年)。結核発病、「寒雷」入会。「草田男の犬」執筆(39歳、昭和22年)。新俳句人連盟入会。共産党復党。結核悪化、清瀬の国立療養所(ここで石田波郷と短期間同室となる)。昭和31年、現代俳句協会幹事就任。昭和42年、結腸がんにより逝去。行年58。

 この間の両者の激論とその結果を、著者の日野百草は、古い資料や知人の筋を探し出し、対面取材して、この著作をものにした。しかも、途中病に臥しての執筆であったとも聞く。実に渾身の一書である。取材は徹底しており、批判者側の芝子・古家・島田らのほか、山口草蟲子・潮田春苑、横山林二にも鋭く追っており、彼らの思考についても、持論を述べている。


 該著は、「草田男の犬」ばかりでなく、赤城さかえについての最も詳細な調査報告書であり、渾身の俳人伝である。かつ、昭和俳壇史の貴重な資料を提供してくれている。


 余談だが、小生が該著にひそかに期待していたことがあった。それは、「草田男の犬」論の激しい応酬に、当の中村草田男がどう反応したかであった。小生の『俳句とは何か』(角川学芸出版、2014年2月発行)にはこのように書かれている。


引用

十二、一 草田男の犬論争

 事の起りは赤城さかえが中村草田男の

  壮行や深雪に犬のみ腰をおろし    草田男

を、「これこそ俳句文芸の現代最高水準を示すものだ」と、新俳句人連盟の機関紙「俳句人」に書いたことである。

 この論争を知るためには、その中味もさることながら、時代背景を知らねばならない。時は昭和二十二年。敗戦後、多くの俳人が自由な意見を持ち、発表するようになった。桑原武夫の「第二芸術論」がその代表であり、俳句界は騒然となっていた。また、戦後の価値観の変貌に応えるように、新俳句人同盟が昭和二十一年に結成され、俳人たちの利益を守るべく、稿料の設定などを行った。しかし、幹部たちは、戦時中に戦争に加担した俳人たちの行動を明るみに出し、糾弾することが同盟の大きな目的の一つであるとしていた。世の中が急激に左傾して行ったころである。その行き方に反発した勢力が、新俳句人連盟を脱退し、現代俳句協会を結成した。西東三鬼や中村草田男たちである。その混乱期に赤城さかえが連盟に入ったのであった。

 連盟の主流は、草田男ほかを戦犯としてその俳句人生命を絶とうとさえ考えていたのである。そこに、草田男の作品が傑作であるとする新参者が身内から現れたのは、まさに獅子身中の虫である。反撃は芝子丁種が主体で、連盟の作家四、五人が加担した。赤城に賛意を示したのは、すでに連盟を塁脱していた高屋窓秋くらいだったようだ。

赤城の草田男句賞賛の言は、おおよそ左記の引用で理解される。

引用

 この句の功績は、なんと言っても、人々が熱狂してゐる喧騒の中から、深雪に腰をおろしてゐる哲学者「一匹の犬」を見出した作者の批判精神である。この「草田男の犬」によって、そこに画かれた群衆圖は単なる写実を遥かに越えた詩の世界を展開する。エプロンに国防婦人会の襟をかけた主婦達、帽子を鷲摑みに振りながら団体を作って歌ひ狂ふ学生達、酔っぱらった安サラリーマンの乱舞、勿体ぶった在郷軍人の横顔、顔青ざめた親族達の一群、一刻もその場から逃げだしたい心を秘めた出征者の表情。……そうした出征風景は未だありありと誰の眼にも残ってゐる筈だ。そして、このやうな情景には必ずや「草田男の犬」にも匹敵するやうな詩のモメントが幾つもころがってゐた筈である。併し、さうした喧騒の中から「一匹の犬」を見出し得る能力は、蚤取り眼の写生観でもなければ感覚の鋭さでもない。「一匹の犬」を発見した作者の詩眼には長い間の思想の集積がある。何度も出征風景に接し、何度も考へさせられ、何度も煩悶し、何度も思想する……さういふ集積の果に「一匹の犬」が現れるのだ。

 何故かと言って、出征の熱狂風景に憤り、絶望し、憂慮しただけでは「草田男の犬」は決して現れて来ないからだ。戦争に対する懐疑とか否定とかはありふれたことである。その程度の思想の位置は確かに陳腐そのものだ。併し、あの長い戦争の時代にこの草田男の十七音詩に匹敵出来る渾然たる文学的表現を克ち得たものがどれ程あったであろうか。否、広くこれを美術の世界にまで拡げて見ても、これだけの「犬」を画き得た作家はゐたであらうか。私は無かったのではないかと思ふのだ。

  (私見。凄いフィーバー振りである。攻撃が凄まじかったせいであろう。だが、肝心の草田男自身の見解表明はまったく出てこない。草田男は沈黙していたのであろうか)

 赤城は、自らへの芝子丁種の批判内容をも纏めている。芝子丁種の言い分は、

引用

 すでに(新俳句人)連盟は、俳壇における著名なファッショ的作家をしばしば糾弾し、(中略)世界労働連合の戦犯調査にも資料を提出しているが、もちろんその名簿の中の一人に中村草田男も挙げているし、彼の戦犯的所説や作品資料は、前任調査幹事の古家榧夫の手によって蒐められてある。

 しかるに赤城の「草田男の犬」における批評態度というものは連盟の戦犯追究の運動とはまったく対蹠的立場に立つものである。

「草田男の犬」のごとき戦争を詠いあげた作品において、私たちがまず第一に問題にすべきは、作家が戦争にたいし否定的立場で詠っているか否かという問題であって、それによってその作品の価値は決定するし、その作家が反動詩人であるか否かもまた決定する。

 赤城は私(芝子丁種)への反駁の中で、(中略)戦争賛美の作品にあらざるゆえんを強調しているのであるが、(中略)音による「勘」を唯一の作品鑑賞の根拠にするなぞ、もはや赤城の批評は神秘論に堕してしまっている。

 高屋窓秋は「現代俳句」二月号において「作家の眼」と題して、赤城の「草田の犬」を支持している。(中略)戦争に対する批判的立場を犬に象徴していると見る時、窓秋のような鑑賞がなされる。(中略、しかし赤城は)「犬」に何か詠いたいものを託したりなぞらえたりする古臭い助平な象徴主義なぞ感じているのではない、と反駁している。してみると赤城のいうところの「草田男の犬」は戦争を批判し否定する「犬」ではない。してみると、(中略)動中の静たる「犬」を見つけだしたというただそれだけの手柄にすぎない。(中略)それは作者の草田男がしばしば説くところの「写生の眼」であって、草田男作品の常套手段なのである……と芝子丁種はいう。

  (私見。文学作品そのものの質の批評ではなく、反戦であったか、翼賛であったかの思想がどうかの批判である。それほど、当時はイデオロギーが叫ばれた時代なのだ)


 以上の赤城さかえと芝子丁種の論争は、言ってみれば中村草田男にとって代わっての代理戦争みたいに見える。肝心の草田男はなにも口を挟さまなかったのかどうかが疑問になって、調べたり人に聞いたりしたが、筆者の俳句の先輩である伍藤暉之氏が「萬緑」平成八年十月の横澤放川の評論を教えてくれた。しかし、これにはただ、「自身の弁護者であった赤城さかえに草田男が対応をみせなかったのも、この季題観がその齟齬の一因であったかと思われる」と横澤が書いている。これだけの文章からは詳しいことは分らないが、草田男が論争に参加しなかったことは確からしい。


引用終り







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