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渡辺香根夫著『草田男深耕』(横澤放川編)




 渡辺香根夫さんが、表記の草田男論を一冊にまとめて出された(編集は横澤放川さん)。三篇の講演録、二篇の評論、晩年の二十年間の草田男作品の多数の鑑賞、などから成っている(二〇二一年十一月二十五日、角川文化振興財団発行)。 

 小生がもっとも興味を持って読ませて戴いたのは二つの講演録である。一番目の講演録には、草田男の長い晩年(昭和三十八年から没年までの二十年間)の俳句作品について、原子公平が「草田男訛が多くて普遍性がない」、「なかにはいいものもあるが全体として余り感心しない」、「俳壇との没交渉で独りよがりになっている」(「萬緑」平成十二年十月号)と批判したことが紹介されている。

 二番目の講演では、同じく宗左近が晩年の草田男句を「見るに堪えない、目を覆うばかりである」(東京四季出版『さあ現代俳句へ』)と厳しく批判したことを紹介している。 

 この二つの批判に対し、渡辺さんがその間の多数の作品を解説しながら、反論する形で丁寧にかつ強く論じているのが、この二番目の講演録の読みどころである。 

 後半生の草田男作品に就いては、編者の横澤さんも「破調、難解、自己満足といった批判が少なからず言われてきた」と認めてはいるものの、「草田男はその生涯の終りまで文学としての自己探求を忘れることはなかった」としている。

 実をいうと、小生も原子や宗の見方に近い印象を持っていたので、この際、それを見事に覆してもらえるだろうとの期待を持って読ませて戴いた。


 宗左近の批判を要約しよう。彼は草田男の俳句行動を三期に分け、それぞれを代表する作品を抽出し、その期間を総評している。


 第一期(昭和十一―十四年、草田男三十五―三十八歳)、対象句集は『長子』『火の鳥』と『萬緑』の一部。この期間の作品のなかから宗は十六句を挙げている。ここでは六句に絞って再掲する。

  玫瑰や今も沖には未来あり

  秋の航一大紺円盤の中

  冬の水一枝の影も欺かず

  降る雪や明治は遠くなりにけり

  妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る

  萬緑の中や吾子の歯生初むる

 これらの句に対する宗の評は「いずれも、明るさが透っている。強く、広く、すこやかに、そして巨きく」とし「じつに、感動する」「これらの作品群の草田男は凄かった」ともろ手を挙げて称賛している。


 第二期(昭和十七年から戦後にかけて、四十一から四十六歳ころにかけて)、第四句集『来し方行方』を中心とする時期、さらに広げて第五句集『銀河以前』あたりまで。七句例句を挙げているが、ここでは二句を引用する。

  白鳥といふ一巨花を水に置く

  白桃や彼方の雲も右に影

 宗は、草田男が「遠望」をなくした、という。凋落の始まりである。


 第三期(昭和三十一年から五十八年までで、五十五歳から行年八十二まで)、第六句集『母郷行』以降、『美田』『時機』の期間である。 

 ここでの例句として、宗は九句を挙げているのだが、小生は唯一つ

  真直ぐ行けと白痴が指しぬ秋の道

だけを再録した。

 この期間の作品に対する宗の断罪は、次のように、容赦ない。

   今あげた(九句のこと)は、戦後の、ひいては作者の、その中での大変数少ない佳作 

  なのである。ほかはすべて、見るに堪えない。目をおおうほかはない。


 これに対する渡辺さんの反論に期待しながら読み進めた。反論の方法は一つ一つの作品に寄り添って丁寧な鑑賞・解説を加えるものであったが、大意を抄録すれば、次のように抄録できよう。

一、草田男全集全五巻の句を読み込みながら、晩年の草田男の内面世界をうかがっているうちに、(原子公平や宗左近の)十把一絡げのラディカルな断罪には何か重大な失当があるのではないかと思われてきた。

二、草田男の文学の歩みが〈向日性〉から〈やるせなさ〉へと翳りを深くし行ったことは事実だ。しかし、向日性をなくしたのではなく、その背後の翳りにはいつもピタっと光が貼りついてる。凋落と見えたものは、実はある要素の深まり、次元を高めた上昇への兆しとして捉え直すべきである。

三、樹木で譬えるなら、枝ばりだけでなく幹をささえている根ばりへの関心が大きくなっている。人間存在が光と影という個の全一的構造として把握されてくる。そういう見通しを失っては評価を誤ることになる。


 こう述べたうえで渡辺さんは、草田男の最後の第九句集『大虚鳥』(「運営委員会第九句集」、発行は没後)の掉尾を飾る次の一句を再三再四取り上げて渾身の賛辞を贈っている。


   折々己れにおどろく噴水の時の中


 渡辺さんは次のように激賞する。


   なぜ「折々」なのか。引きあげの力は向うがわにあって地上人という中間者の手には 

  ない。神は気まぐれで、人間には「隠れた神」としてしか存在し得ない。引きあげの力 

  が働くのは、よくて「折々」でしかない。だからこそ、それは〈恩寵〉つまりめぐみと 

  よばれ、引きあげは必ず驚きと喜びで魂を満たすのである。なぜそれが「時の中」なの

  か。引きあげは現世の有限な〈時間〉のなかで生起するからである。ひたすら天を濡ら

  しつづけていた噴水が突然リズムを滞らせ、一瞬息を呑むような寂漠が辺りを包むこと

  がある。噴水のこの期外収縮、いわばつんのめりに人間が己自身を超える瞬間の驚きが  

  暗喩されている。〈瞬間〉とは天上の〈永遠〉と地上〈時間〉との交点に他ならない。

  単に比喩の巧みをひけらかす句ではない。もっと俳句自体に引きつけた言い方をするな

  ら、〈写生〉が形象のかなたへと〈写生〉を超えてゆく歓喜に打ち震えている句であ

  る。


 別のところで、渡辺さんは、この句の感動をこうも語っている。


   草田男の歩み全体がそこに凝縮されていると見てよい作品ですね。(略)これは明ら

  かに思想詩・形而上詩です。少なくともそういう視点から読まないことには理解が底に  

  届かない。なるほど初期の神話的な明透そのものの世界はないかもしれませんが、内容 

  はうんと豊かに且つ深くなっています。地上的存在の生の崇高と悲傷とをみごとに形象

  化し得ている畢生の秀句だと思いますね。これがいきなり成就されたかというと、そん

  なことはない。晩年のくんずほぐれつの言語世界全体は、傍目にいかにぶざまに映ろう  

  とも、この絶唱にむかって収斂していると言っても過言ではありません。


 渡辺さんの挙げる秀句はほかにもある。


   白桃や彼方の雲も右に影


   同じ一つの光源から放射される光が、近景の白桃と遠景の雲、それぞれのおなじ側に

  影を投げかけている。白桃と雲とが光と影のコントラストを共有して、世界の一つの秩 

  序・調和に与かっている。しみじみ自然の摂理を感じさせる、くっきりした秀句ではあ

  りませんか。


 渡辺さんの草田男句に対する真摯で深い読みは、読者の私にも伝わってくる。一方で、よほどの草田男通でなければ、なかなかそこまで読み切れないのでは、とも思ってしまうのである。

 全面的に納得したわけではないが、これらの句が秀句であるとして、しかし、それ以外に我々がいつもの句会でつくるような程度の句が、渡辺さんの挙げた草田男晩年句に、見過ごせないほど多いのではなかろうか。原子や宗の批判が、私の理解の中では、まだ払拭できていないのである。

 個人的な選で三句ほど挙げさせて戴く。


   蒼蘆よ異郷にパスカル読む吾子よ

 草田男の三女弓子がフランス政府給費留学生として、二年間フランスに渡った。愛する娘に想いを馳せる句である。「青蘆」は「考える蘆」そして「パスカル」である。吾娘燦燦の句で微笑ましいのだが、分かり過ぎるくらいの句で、しかも身内のこと。私なら面映ゆくて詠めない。


   詩人の妻学者の母ぞ冬泰かれ

 詩人は草田男自身で、学者はフランスの三女。つまりこの句は吾妻をメロメロに愛する句である。微笑ましいのはその通りなのだが・・・。やはり面はゆい。


   まさしくけふ原爆忌「インディアン嘘つかない」

 渡辺さんはこの句に「受難者の矜持とペーソスが滲む」と書いているが、そこまでは私には伝わって来なかった。

  

 つまり、中村草田男という人間を深く理解しほれ込んだ渡辺さんだから、一見平凡な句の裏側や底辺をも理解し、深く読めるのであろう。これらの句がもし草田男という作者名を伏せられた形で一般の句会に出されたとしたら、私は渡辺さんのような真摯な読みができたであろうか、と訝る。

 

 思えば、前半生の名句は草田男という名を知らない人にも「素晴らしい」と思わせる力があった。もう一度掲げておこう。原子や宗が「凄い」と感じた通りである。


  玫瑰や今も沖には未来あり

  秋の航一大紺円盤の中

  冬の水一枝の影も欺かず

  降る雪や明治は遠くなりにけり


 これらの句には「草田男」の名前は要らない。

 しかし、後半生の作品はほとんどが、「中村草田男」というクレジットがあって、しかも草田男の哲学や宗教観や家族への愛の深さへの丁寧な解説があって、初めて顕ってくる句群なのではなかろうか。

 中で、〈折々己れにおどろく噴水の時の中〉は、何度も何度も口遊むうちに、最初に読んだときの詰屈感が、少しづつ和らいでいくのを感じたのである。


 一読し、著者渡辺香根夫さんの草田男にかける情熱と敬愛の念を深々と感じさせられた書でした。学ぶところが多くありました。多謝です。

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