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藤原龍一郎『抒情が目にしみる―現代短歌の危機(クライシス)』




 藤原さんの該著(2022年9月1日、六花書林発行)を読む機会をえた。

 塚本邦雄、福島泰樹らに多くの紙幅をさき、高瀬一誌、蒔田さくら子、永井陽子にも触れている。

 塚本については、第十四冊目の歌集『豹變』(一九八四年)が、彼の大変貌を遂げる時機の歌集であるという。ついで、第十七冊目の『波瀾』(一九八九年)は、巻尾に

  春の夜の夢ばかりなる枕頭にあっあかねさす召集令状

を置いてあるが、この「あっ」という表記に驚く、とある。正字旧仮名を守って来た彼の大変貌を予感させる。この時期は、後述するライトヴァースが流行り出したのだが、それに対し塚本は、

  薔薇をやぶからしと訓みくだす天才的若者をひつかいてやりたい   塚本邦雄

と詠んでいる。「ひつかいてやりたい」という直情表出には、小生も、驚く。さらに藤原は、第十九歌集『魔王』を挙げ、これが塚本の後期のピークだといい、意識的な韻律の大乱調を指摘している。


 俳句の領域しか知らない小生は、この辺で個人的に興味のあるテーマに移ることにしたい。それらは ①中井秀夫の現代短歌に果たした功績を書いた「賭ける編集者」、②俵万智にかかわる評論の「『サラダ記念日』現象以降」。③「短歌のニューウェーブについて」。そして ④「短歌と俳句の差異、そして魅力」である。

 さて、小生がすぐに読んだ、いや、読まされた①から④までを抄録しておきたい。常々、評論は面白くなくてはいけない、と思っている小生にとって、目標とする論考であった。


① 「賭ける編集者」

 中井英夫は、昭和二十四年から約十二年閒、『短歌研究』、『日本短歌』、角川の『短歌』の三誌の編集長をつとめ、その間、中城ふみ子、寺山修司、石川不二子、菱川善夫、上田三四二、塚本邦雄、葛原妙子、相良宏、春日井健、浜田到、清原日出夫、平井弘、佐佐木幸綱、福島泰樹、村木道彦らを短歌界に登場させた。この辺の事情=短歌界の裏面史を書いた中井の『黒衣の短歌史』を、藤原は最良の短歌史であると賞賛し、この著に巡り合ったことで、藤原も短歌にのめり込んだ、「運命の書」である、という。

 中井が募集した新人五十首の第一回目(昭和二十九年)の入選者が中城ふみ子であった(ふみ子は北海道の生まれで、小生(栗林)と同郷でもあり、彼女の実家を少しだが知っているので、興味を持った。そうでなくとも、「乳房喪失」は私にとってショッキングな歌集であった)。その歌集名は当初は「冬の花火―ある乳癌患者のうた―」であったが、中井が「乳房喪失」に直したという。同じく、翌年の入選者は寺山修司であり、その「父還せ」を「チェホフ祭」にしたのも彼であった。

 興味ある部分は、ふみ子の作品に対する歌壇の反応である。中井の『黒衣の短歌史』を藤原が紹介しているので、それを示そう。

―これはやりきれぬ。時代遅れで田舎臭い(香川進)

―ヒステリックで身振りを誇張している(福田栄一)

―編集者がひっかかった(大野誠夫)

―表現が大雑把。身ぶりが眼につき全体が作りものだ(中野菊夫)

これらの悪罵に対し、中井は文壇にまでふみ子の評価を求め、現在の「乳房喪失」の立場を確立したようだ。

 中井は、しかし、ふみ子の受賞第一作三十句に、妥協のないダメ出しをしている。病床のふみ子に、である。該著は、ダメ出しの手紙を仔細に引用しているが、厳しいものであった。中井の気持ちは「自分が見出したふみ子の才能を、極限まで磨いて、短歌の世界に提示したい。病状が悪化しているのならば、なおさら、強く𠮟咤して、珠玉の作品を一句でも多く残させなければならない」であった。

 その才能に惚れ込んだら、編集者として徹底的にその歌人を推す。この手法は後に「短歌」の編集長に移籍してから、春日井健や浜田到に対しても発揮される……とある。


 個人的な意見であるが、評論は面白くなければならない、と考えている。科学論文の評論でさえ、面白くなければならないと考えている小生には、この章は大変楽しかった。

中井のような存在が俳壇にもいて欲しいものだと、つくづく思う。


俵万智にかかわる評論の「『サラダ記念日』現象以降」

 『サラダ記念日』は一九八七年五月に刊行され、翌年の八月には二百七十万部を超えたらしい。村上春樹の『ノルウエイの森』に匹敵する。歌集が小説級の人気を博したのである。

 このときの角川短歌賞選考委員の評価はどうであったのであろうか、興味がある。藤原の記述を抄録すれば次のようになろう。


大西民子―若い女性の明るい恋愛体験が捨てがたく、最後まで迷っていて、残しました。

岡井 隆―時代的にはシンクロナイズしているのでしょうね。今までの人は文語を口語にしただけなんだが、この人たちは頭から口語がそのまま歌の中に入ってきている。

 弘―生きている充実感みたいなもの、かなりフィクションの部分があると思うんですが、そういう明るさの中の一途さとつつましさみたいなものもあり、それが共感を呼びます。

武川忠一―文体は確かに軽くて、全体の扱い方がサバサバとしているんですが、実はなかなか繊細な一面もあり……


 岡井隆以外の評価が高かったようだ。

 その後の文学界での反響を、藤原は、二〇一六年十一月号の「Tri」を引いて紹介している。


向井 敏―戦後の短歌というのは、伝統の抜け殻みたいなものですね。俵万智はその抜け殻に活を入れたといっていいでしょう。(啄木や寺山のような)湿っぽいものでなく、晴々としているのです。それが気持ち良かった。

中上健次―あれはあの子の個性じゃないんだよ。(五七五七七の強さを言っているに過ぎず)歌でもなんでもないよ。歌というものの器がどのくらい強いか、器の方がどれだけ、すごいかってことを言っているにすぎない。

田島雅彦―あれはきっと日常だれでも日記帳に書くくらいの文章で(中略)、そこには批評もパロディもないので、やたらに甘ったるく、素直で単純なよい子の短歌という感じですが。


 藤原龍一郎自身のリアルタイムでの感想は、「底抜けともみえる自己肯定が嫌だった。当時の私は、短歌表現というものは、世界に対して疑いを持ち、自己と世界との関係を問い続ける視点から生まれるものだと思っていた」とある。また「歌壇外の表現者が、向井敏のような肯定者も居たとはいえ、批判、否定の言葉(を発したの)は正鵠を得ていたと思う」とある。一方で、「歌壇の中の人々は、空前の出来事に『サラダ記念日』をどう位置付ければよいのか戸惑っていたように思う」……これも藤原の見方。


 阿木津英は平成初期の短歌シーンを、俵万智や穂村弘といた異色の歌人の登場による短歌の規範の崩壊の過程としてとらえていて、その見方に藤原も同意している。


 ライトヴァースとニューウェーブについても論じられている。藤原は、ライトヴァースはこの「異色」たちを、何とか規範の側からいい止めようとした用語であり、残念ながら定着しなかった。批判がなく作風が多採過ぎて一つにくくることが難しかった。一方、ニューウェーブというのは、「異色」の側から自分たちの試行を宣言したフレーズだったと言える、という。ニューウェーブについても例を挙げながら「ニューウェーブという言葉にふさわしい新しさや衝撃度が足りなかったように思える。安西冬衛や北川冬彦たちのモダニズムやダダイズムの詩の新鮮さ衝撃力を超えているかと問えば、否と答えになってしまうだろう。


③ 短歌のニューウェーブについて

 前節で、ニューウェーブについて、「その提唱者である荻原裕幸と加藤治郎の作品から〈短歌の新しい波〉を感じなかった」として否定的であった藤原は、ここで見方を変えている。それは「ねむらない樹」の創刊号と第二号の特集号を読んだからであった。ニューウェーブとは、作品のみの変貌ではなく、それ以外の短歌シーンへの変革への働きかけであったのだ、と考え直したのであった。

 このことは、前節でも、新しい動きとして、荻原らのラエティティア、五十嵐きよみの「題詠マラソン」、田中槐の「マラソン・リーディング」などの、私の言い方でいえば、新しさを指向する短歌人のための「短歌の場」とかプラットフォームの構築とその活発な運営に注視した結果なのであろう。運動といっても良いのだろう。

 齋藤齋藤の第二歌集『人の道、死ぬと町』は(藤原にとって)「とてつもなくもの凄く今までに見たことも聞いたこともない作品の出現」であった、ようだ。「気付くのがいささか遅かったが、リアルタイムのノイズを消し去ってみれば、そこには新しい結晶世界が出現していたということか」と結んでいる。


 私はこの事象を俳句の世界にも当てはめようと、しきりに考えているのだが、思い当らない。リルタイムのノイズが故に、俳句の大きな流れが、私には見えなくなっているのだろうか。


④ 「短歌と俳句の差異、そして魅力」

 この節のまとめは割りに明快に出来そうである。短歌は、喜怒哀楽を文学的に詠み込める。俳句は、それを入れずに言葉の背後に象徴的に沈める。藤原が短歌に惹かれたのは、定型詩でありながら、喜怒哀楽をくっきり表現できるという短歌の特性にあるようだ。たとえば、

  五月祭の汗の青年 病むわれは火のごとき孤獨もちてへだたる   塚本邦雄

である。この歌には、「メーデーの行進をする健康な若者への焼けつくような嫉妬の感情がある」「短歌っていいなあ、凄いなあ」と思った、とある。

 同一のモチーフで詠んだ短歌と俳句がある。よく知られているのは寺山修司だが、藤原自身も書いている。両方を揚げる。

 ラグビーの頬傷ほてる海見ては                 寺山修司

 ラグビーの頬傷は野で癒ゆるべし自由をすでに怖じぬわれらに   寺山修司

 キオスクに夕刊買うや春の雨                 藤原龍一郎

 タブロイド版夕刊買うためにコインを探る指のさびしさ     藤原龍一郎

 二つの詩形の差異が明確に出ている。


 藤原は、好きな俳句を挙げている。

  ちるさくら海あをければ海へちる    高屋窓秋

  春ひとり槍投げて槍に歩み寄る    能村登四郎

  くちなしの花カーソルの点滅す     榮 猿丸

  梅雨寒や理工学部の長廊下       髙柳克弘


 どちらが優れているかというようなことではない。詩の形式としての機能と生理が異なっているということだ。藤原の場合は、自分の饒舌を受け止めさせる詩形としての短歌を選んでいる。感情語を抜きにして、しかし、作者の心情を暗喩として伝え得る俳句は、言わば「沈黙の金」の詩形である。


 この節を読んで、私は、つくつく短歌はいいなあ、と誘惑を感じた。短歌に逃げ出そうかと一瞬思ったのだが、思い止まって、逆に、俳句に感情語を堂々と入れようか、それが新しい俳句を作るかも知れない……などと考えたものである。そして、

  薔薇をやぶからしと訓みくだす天才的若者をひつかいてやりたい   塚本邦雄

  金魚手向けん肉屋の鉤に彼奴を吊り               中村草田男

を同時に思い出した。


 俳句しか知らない小生にとって、該著は大変刺激となった。多謝です。

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