該著紹介の後半として、第二章 黒田杏子の〈櫻〉 第三章 黒田杏子の〈月〉 さらに 第四章 黒田杏子の〈家族〉 と読んで行く。
第二章 黒田杏子の〈櫻〉
該著の三一七頁から三七一頁に亘って、もっぱら杏子の「櫻」の句を訪ねている。
櫻行脚が有名な杏子さんだから、彼女の桜の句には誰もが関心を持つ。彼女には「花を待つ」を初五にもつ作品がたくさんある。「春を待つ」というのは季語として立項されているが、「花を待つ」というのは歳時記には無いのだそうだ。だが、花=桜と考えれば、立派な春の季語と考えて良いのであろう。
花を待つ土佐の耳鼻科の俳諧師 杏子
花を待つお顔そのまま微笑佛
花を待つ地震ふる國に句座重ね
花を待つ虚空蔵菩薩旅守
花を待つ死者の購めし歎異抄
花を待つひとのひとりとなりて冷ゆ
花を待つ一日一句書きとどめ
花を待つかなしきことをかなしまず
花を待ちつつ手紙書くはがき書く
花を待つずつとふたりで生きてきて
三十歳で櫻花巡礼を発心し満行まで三十年。現役の本業の仕事や日常の生活を丁寧に送りながら、各地への桜巡礼は、僧の千日荒行に似ていると、髙田は敬意を表する。
「櫻」関係の杏子俳句の季語には、先の「花を待つ」以外に、
櫻の芽、初櫻、花の闇、夜櫻櫻の夜、花惜しむ、残花、余花、花巡る、
などがある。小生の好きな句を挙げておこう。
ふくらんでくる夜の森の櫻の芽 杏子
山姥の一夜を臥しぬ花の下
福家俊明長吏さま亡き夜の櫻
みな過ぎて櫻月夜となりしかな
一句目は東電福島原発に近い「夜ノ森」の桜並木。小生も現役時代仕事で通ったので懐かしい。業界では福島第一発電所をイチエフ(ⅠF)と呼んでいた。二句目の「山姥」は杏子自身とのこと。三句目は三井寺の桜。小生もなんどか訪れて柿本多映さんに案内され、境内で兄君の吏長に紹介して戴いたものである。四句目も東日本大震災が背景にある。
ゆつくりとゆつくりとゆけ花の闇 杏子
この句は『花下草上』にあり、髙田はこの句集が杏子の転換点だと主張しているが、そうみなせるのは髙田が杏子のその後を知っているからだという。「ゆつくりいそいできた」杏子は、単なる「闇」でなく、「花の闇」であるからこそ、「ゆつくり」を心がけたようだ・・・と言っても減速して止まるわけではなく、「ゆつくりとゆけ」の「ゆけ」で、前進することを忘れないのである。
印象深い句を挙げておこう。
シチリアの落花を浴びて睡らむか 杏子
月満ちて花の秩父となりにけり
花の夜はロールキャベツをあたためて
イチエフと聞けばうなづく余花の道
なほ残る花浴びて坐す草の上
巡り辿れる花冷の夜の鈴
髙田は他者の桜の句も挙げながら、論考に潤いを加えている。
万年筆の中に泉やさくらの芽 正木ゆう子
夜桜やうらわかき月本郷に 石田波郷
チチポポと鼓打たうよ花月夜 松本たかし
押入に使はぬ枕さくらの夜 桂 信子
そして杏子自身の『銀河山河』の一句。
櫻花巡礼残花巡礼満尾 杏子
第三章 黒田杏子の〈月〉
該著の三七四頁から四一九頁に亘って、もっぱら杏子の「月」の句を訪ねている。彼女に「夏の月」の句はないそうだ。総称的な季語よりも、「月涼し」のような句が多い。何故なら彼女の詠みたいものは「夏の月」そのものではないからだ、と髙田はいう(これは「冬の月」には「寒満月」や「月涼し」など具体性のある季語を用いた句が多いことでも頷けるようだ)。
月涼し北欧の句の三行詩 杏子
生きて逢ふ月涼しかりかなしかり
「北欧の三行詩」はノーベル賞を受けたトーマス・トランストロンメルへの賛歌で、日本語訳『悲しみのゴンドラ』の栞を杏子が書いている。小生もこの本を彼女から紹介されて読み、感動を戴いたものだった。
春の月、朧月、月を待つ、月白、月代、月見、名月、卯月、無月、後の月、十三夜、寒月、
そして単なる「月」の句を含め、髙田がまとめてくれた多くの句の中から、小生の好きな句を挙げておこう。
月を待つ佐渡の時宗の坊守と 杏子
月を待つ會津八一を筆写して
芭蕉照らす月ゲルニカの女の顔
能面のくだけて月の港かな
しろがねの月走りけりとりかぶと
月の國より光降る蕎麦の花
月の砂漠に死にゆけるひとの数
山姥に山山のこゑ月のこゑ
犬すこしよごれてきたる無月かな
天安門掃かれてありし十三夜
三句目、ピカソの「ゲルニカ」の女性の大きく開けた口、突き上げた手のひらの大きさ・・・を思い出す。月に照らされた芭蕉の葉の茂りとの配合は稀有であろう。
お形見の紬の包み十三夜 杏子
紬着て発たれし後の月あかり
あらきそば主人寒月光の炉辺
寒月光移公子の一句一句かな
一句目は鈴木真砂女の形見に係わる句である。この紬は杏子のもんぺスーツに仕立て直されているそうだ。二句目は、郡上紬を扱う呉服店の主、谷澤幸男氏への悼句である。大勢の知己への杏子の心配りに感心させられる。三句目は山形の有名な蕎麦屋「あらきそば」への挨拶句。蕎麦打ちに転身した「藍生」の会員もいたそうだ。四句目は、秩父の女流俳人馬場移公子で、中島鬼谷の『峡に忍ぶ』があった。
第四章 黒田杏子の〈家族〉
該著の四二二頁から四九八頁に亘って、もっぱら杏子の「家族」の句を訪ねている。
髙田は、杏子の作品に出てくる杏子の父や母を確かめたいと思った。鉦叩きは父、邯鄲は母と書いてあったが、「父は鉦叩」「母は邯鄲」とは違うのである。句の抽出には、単なる文字上の父や母ではなく、実父、実母である句を選別し考察している。中から小生の琴線に触れた句(実に多いのだが)の幾つかを再掲しよう。
蕎麦搔や涙もろきは父に似る 杏子
葛湯して父の隣に坐りけり
ちちはもうははを叱らぬ噴井かな
噴井鳴る父若ければ母もまた
帰省したとき、安らかに寝落ちた父母の家の、その雨戸の外に懐かしい噴井の音が響いてくる。この噴井は、もし疎開しなかったら、杏子にとって、このような大きな存在にはならなかったであろう、と髙田は書いている。
戒名に光の一字さみだるる 杏子
長命無欲無名往生白銀河
この句に添えられたエッセイを要約すると「父は八十八歳、母は九十五歳で大往生。母は明治四十年うまれ。若いころから短歌に、疎開後は俳句に打ち込み、亡くなる間際まで俳句を詠んだ」とある。杏子は、むかし、母について句会にも出たようだ。
母の幸何もて量る藍ゆかた 杏子
なつかしき広き額の冷えゆける
鮎のぼる川父の川母の川
柚子湯して父兄弟の順に
昭和十九年に東京の本郷から黒羽へ疎開したのは杏子が六歳のとき。入浴は、父、兄、弟と続き、そのあと三姉妹、最後が母だった。当時の普通の家庭の習慣であった。
ご主人の黒田勝雄氏についてもいろいろな句がある。句の中では「男・をとこ」「おぢいさん」「尉」として登場するようだ。「ひと」もそうかも知れない。
つぶやけばききかへすひと初氷 杏子
写真家の黒田氏は「暗室」で暗示されることもあるようだ。夫の弁当は杏子が作っていたらしい。新米にかんするエッセイがある。
私たちは新米を頂くとき、いつも同じことをくり返し合っている。「たきたての新米
にごま塩を振りかけただけで十分。おかずは要らない」
瀬戸内寂聴の新米論も紹介されている。
たきたての新米をお茶碗によそって、二つ割りにした青すだちをギュッとしぼりかける。お醤油を一滴、二滴。さっとかき混ぜて熱々のうちに戴く。
全国から届く食材も句になっている。
ふたり棲む丸餅切餅豆の餅 杏子
ご主人やお二人を詠んだ沢山の句から幾つかを挙げておこう。
ふたり早起き道明寺櫻餅 杏子
働いて睡りてふたり花を待つ
ふたり棲む書斎暗室削掛
花の木のほとりに遊ぶ尉と姥
なにはともあれ金婚の初日浴ぶ
喧嘩せぬ老いぼれふたり月を待つ
カメラ売り老いぼれふたり月を待つ
選句して老いぼれふたり月を待つ
ご夫妻には知己が多い。金子兜太や瀬戸内寂聴。いや彼らは知己以上の存在だ。著名人だけでなく、市井の人まで・・・歯医者、老舗の主人、地方の好事家・・・。彼女には、一度会った相手に幸せ感を抱かせる天与の才がある。この生まれついて持っている能力を私は「セレンディピティ」と呼んでる。稀だが、そういう人が居るのである。
ご夫妻には子供さんがおられないようだ。だが、この著者の高田正子さんを始め、全国津々浦々に、気脈の通じ合った仲間や門弟が大勢いらっしゃるのである。実子を持たないものの、彼らは家族のような存在であろう。いや、それ以上かも知れない。
どうぞ、向後もご夫妻、お二人でお幸せに! 小生と同じ年齢なので、そう強く願っている。
髙田正子さん、この労作、本当に有難う御座いました。クロモモを知らない方々を意識して書かれたと、あとがきにありますが、嬉しい心遣いでした。
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