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近藤栄治著『昭和俳句の挑戦者たち』―草城と誓子、窓秋と白泉、そして草田男―





 近藤栄治氏は、高柳重信についての評論により、第30回現代俳句評論賞を受けた評論家で、この著作のほかに『俳句のトポスー光と影』がある。俳誌「青垣」(大島雄作代表)の会員でもある。

 本著は創風社出版、2022年3月1日発行。300頁ほどの論作で、副題の通り、第一部(約60頁)は日野草城と山口誓子を、第二部(約70頁)は高屋窓秋と渡邊白泉、第三部(約160頁)は中村草田男を論じている。

 小生も昭和を代表するこれら五人の作家に興味を持っていて、拙論を書いたことがあるので、ことのほか興味を持って読ませて戴いた。内容を紹介しよう。


 第一部 草城と誓子(季語の別れ)

 よく知られているように二人には共通点が多い。まず明治34年生まれであること(余談だが、この年に草田男も生まれている)。京都大学(草城)の法学部、東京大学(誓子)の法学部を卒業し、大会社(草城は大阪海上火災保険会社、誓子は大阪住友合資会社)に入社、安定した大会社員生活を送る。二人とも、都会的・サラリーマン的である。しかも後、大阪空襲で焼け出され、長年の病(草城は肺浸潤、誓子は肋膜炎)に苛まれ、退社を余儀なくされてしまうのも共通している。

 俳句の上での共通点は、三高京大俳句会から「ホトトギス」を経由し、草城は無季俳句を奨めたため除籍され、誓子は虚子との俳句理念の違いから退会し、秋桜子の「馬酔木」に移ったように、二人とも虚子と確執があった。新興俳句運動という点での共通点は多いのだが、深層では、二人の俳句理念は違っていたし、人間性の点でも違っていた、と近藤氏は誓子自身の言を紹介する……草城は明るく、誓子は暗い。草城は文学志向で誓子は論理志向である……などである。

 該著は二人の俳句の上での違いを克明に解説している。一言でいえば「季語」に対する思いの違いであり、それが新興俳句における二人の立ち位置の違いとなった。「ホトトギス」の旧弊な自然詠偏重を批判的に見る態度においては一緒なのだが、新興俳句系の季題の考え方において、歴史派の誓子は「十七音に対して絶大なる愛着を感じ、又季物に対して絶大なる愛着を感じ、而して、この両者の歴史的な結合に対して絶大な愛着を感じてゐる」と言っている。そして誓子は、十七音定型が当為(本質的で必然的)であるのに対し、季物・季題はあくまでも歴史的なものと認識していた。この点は草城も同じなのだが、歴史的であることの重みに意味があるという誓子の考えに対し、「そうであれば拘るべきことではない」というのが草城であった。

 近藤氏は、草城は理論を振りかざさない人だとしながら、誓子の論に対しては次のように反駁したことを紹介している。

 「季感の有無に拘わらず季語の存在を以て俳句と認めるものが伝統派であり、単なる有季語俳句を篩却して有季感有季語俳句のみを俳句と認めるのが馬酔木流派(誓子氏を含めて)であり、有季感無季語なるものも俳句と認めたのが或る時代の天の川派、句と評論派であり純粋に無季なるものも俳句であるとなすものが超季感派である」つまり「季感・季語の有無に拘泥せぬ立場」の表明であった。これが二人の決定的な別れに繋がった。

 記述はその後、終戦までを振り返る。当然『京大俳句事件』が係わってくる。昭和十年に創刊した「旗艦」の指導者の立場を草城は、弾圧を危惧して、十五年に降りた。官憲のブラックリストに乗っていることを察知した富安風生の助言に従ったのだと伝わっている。

 近藤氏は多くの作品を挙げているが、ここでは、代表的な一句だけを挙げておこう。

  桃史死ぬ勿れ俳句は出来ずともよし


 一方誓子は、療養しながら旅に出かけたり、芭蕉を勉強したり、模索しながら孤独な俳句制作を續けた。その営為が戦後の俳誌「天狼」創刊へと実を結んで行く。

  つきぬけて天上の紺曼殊沙華

 そして戦後に移る。草城は池田市の建売住宅(日光草舎)で病床に臥す。緑内障で右目失明。心の救いは、昭和二十四年創刊主宰の「青玄」である。伊丹三樹彦らの尽力だった。このころ出版した句集に対し、山本健吉は「極端な早熟型の極端な晩成型」と評し、のち宇多喜代子が「早熟と晩成の間に横たわる草城の俳句活動の成果を正当に評価すべき」と反論した。晩年草城は、虚子に同人復帰を赦され心から喜んだ、と小生は三樹彦から聞いている。

  高熱の鶴青空に漂へり

 

 誓子には「天狼」が出来た。

  海に出て木枯帰るところなし

 「天狼」というと「根源俳句」論が思いだされる。「ありふれた現実に深い心を看る」という意味だが、自然への回帰と個への偏りが社会的視点を弱めるものとして、とりわけ若い世代から批判されることもあった。

 新興俳句が掲げた人間主義と詩性の追及は、波郷や楸邨や草田男の人間探求派の作品やその主張と共に、社会性俳句を含めた戦後の現代俳句に大きな影響を与えた。その出発点に草城と誓子はいた。昭和の新興俳句の周辺を知る上で不可欠な高著である。


 第二部 窓秋と白泉(詩への越境)

 明治から大正にかけての「新傾向俳句」には河東碧梧桐がいたが、昭和の新興俳句には代表がいない群像劇のようなもので、都市化と高等教育の普及によるインテリ層の形成がその背景にあった、と近藤氏はいう。その群像劇の中に高屋窓秋と渡邊白泉がいた。この二人の新興俳句人の共通点は、長い俳句中断の期間があったことである。

高屋窓秋

 草城・誓子・草田男に遅れること九年(明治四十三年)、窓秋は軍人の家にうまれた。のっけから余談で申しわけないが、窓秋が新興俳句にのめり込んだ後、「馬酔木」を表向きは個人的な理由で出ることになるのだが(本音は秋桜子との俳句理念が違ってきたからである)、さらに本音の理由(官憲の追及を未然に避ける)があると小生は思っている(詳しくは拙著『俳人探訪』文學の森発行をご参照下さい)。 

 とまれ、これが窓秋の初めの休俳となった。波郷に言わせると「『馬酔木』の中で窓秋ただ一人がほんとうに新しかった」のに……である。満州に脱出して、昭和二十一年に東京に戻るまで、九年間のブランクであった。

 窓秋は「馬酔木」時代、「新俳話会』を通して西東三鬼と出会った。このことは彼を新興俳句人として運命づけた。戦後は、新俳句人連盟や現代俳句協会、そして三鬼の誘いで誓子の「天狼」の創刊同人となる。昭和二十六年にはラジオ東京に入社、また四十五年まで十九年間の休俳となる。ただし、高柳重信がらみの俳句活動にだけは加わっている。

 昭和四十五、六年の作品からなる作品「ひかりの地」を「俳句研究」に発表したのが句作再開の合図であった。その後、『高屋窓秋全句集』を上梓し、またも約六年間の休俳期間に入った。

 五十八年以降は断続的に作品を発表、澤好摩の「未定」に参加したり、現代俳句大賞を受賞したりしている。平成五年に句集『花の悲歌』を発刊、同十一年に亡くなった。八十一歳。

 近藤氏は、窓秋の作品を時代に即して丁寧に追記し、論評を加えている。ここでは人口に膾炙している懐かしい作品を再掲しよう。

  頭の中で白い夏野となつてゐる   「馬酔木」昭和七年

  ちるさくら海あをければ海へちる   同     八年

  山鳩よみればまはりに雪がふる    同     九年

  母の手に英霊ふるへをり鉄路    「京大俳句」十三年

  石の家にぼろんとごつんと冬が来て 「天狼」 二十三年

  雪月花されば淋しき徒労の詩    『花の悲歌』


渡邊白泉

 白泉は窓秋の三年後、大正二年に東京の青山に生まれた。慶応大学を出たシティボーイである。秋桜子の「馬酔木」に投句し始めたが同時に「句と評論」でも活躍、編集同人選句欄で頭角を現し、「馬酔木」をすぐにやめている。秋桜子や窓秋の句柄に魅了されていたことは確かなのだが、「句と評論」に移った理由は定かではない。昭和十年頃になって、その句柄は以前より社会や庶民に寄り添ったものになってきているようだ、と近藤氏は見ている。

  街燈は夜霧にぬれるためにある

  自動車に昼凄惨な寝顔を見き

などである。やはり「新俳話会」の三鬼の斡旋で「京大俳句」に会員となり、作品や批評を書いている。立場は超季語派であった。この頃の白泉を三鬼は「冷たいレアリズム。感傷の排除と知性。直截な表現。たくましい精神こそは、新興俳句の将来の態度であり精神である」と期待している。近藤氏は「直截な表現の背後にユーモアがある」と付け加えている。

 近藤氏の白泉論で興味を覚えたのは白泉の蕪村観である。萩原朔太郎の蕪村論に啓発されたものだが、子規らの蕪村評価の誤りが現代俳句から詩を失わせたと白泉は考えた。俳句は客観主義的であってもその内側には本来の作者の主観が息づいているべきである、という。この考えを進めれば、虚子の客観写生を批判した秋桜子の抒情的表現すら中途半端なものに見え、これが「馬酔木」を去った理由だろう、と近藤氏は考えている。

 その後白泉は「句と評論」を離脱し「風」を立ち上げる。ここに窓秋を迎え、さらに三橋敏雄との縁も生れた。勤務していた三省堂に新興俳句派の阿部筲人や藤田初已がいたこともあり、仕事の上でもどっぷりと新興俳句志向となった。ペーソスとイロニーの色合いの句も生まれている。

  銃後という不思議な町を丘で見た 

  繃帯をも彼巨大な兵となる

  戦争が廊下の奥に立つてゐた

 昭和十五年五月、白泉は京大俳句弾圧事件の第二次検挙に遭い、九月に執筆禁止を言い渡され起訴猶予で釈放された。外部への俳句活動は断たれた。この間、阿部青蛙らと古俳句を勉強したことは、後の彼の俳句活動に影響を与えている、と小生は思っている。

 敗戦を一水兵として函館で迎えている。その後白泉は、岡山県の高校教師となったり、該著には書かれいないが行方不明となったり、結局、沼津の市立高校の社会科の教師に落ち着き、昭和四十四年一月脳溢血で亡くなる。

 このすぐ後、劇的な発見があった。白泉自筆の句原稿が沼津市立高校の職員室の金庫の中から発見されたのだ。余談だが、この辺りの話しは拙著『俳人探訪』にある。また〈戦争が廊下の奥に立つてゐた〉の句碑が、白泉を慕う教え子たちの手で、同校の玄関に建てられた。白泉のご長男がその式典に出席していたことを、小生は覚えている。

 昭和四十一年、三橋敏雄の『まぼろしの鱶』の出版記念会が東京で開かれたとき、まぼろしのごとく白泉が顔を出して、昔の仲間を驚かせた、と藤田初已が語っている。会が終わってから新宿で一緒に飲み直し、靴を間違えて帰りました……と、これも藤田の話し(『俳人探訪』)。その三年後、急逝した。白泉は、俳句中断後、俳壇的には鳴かず飛ばずであった。しかし、没後、窓秋、高柳重信、加藤郁乎、三橋敏雄らが尽力して世に送り出した『渡邊白泉全句集』などが、彼の句業を今に伝えている。新興俳句運動とは切り離しては論じられない俳人であった。


 以上の通り、この著作の第二部は、窓秋と白泉の新興俳句人としての生涯と作品を丁寧に紹介するもので、小生にも改めて彼らの業績を懐かしく思いださせてくれるものであった。しかも、単なる事実の羅列ではなく、近藤氏の見方や俳句史の中での意味付けがなされている点、参考になる高著である。


 第三部 中村草田男(ラザロの眼から詩人(ディヒター)の眼へ)

 草田男に関する評論の多い中で、その作品と来し方を丁寧に紹介している。しかも、その句業と一句一句を、歯に衣着せずに論評している。この著『昭和俳句の挑戦者たち』の分量の約半分を占めている草田男論なので、小生のブログに別の項をたてて紹介したい。草田男を熱愛する人も、なぜか近づき難い思いを持つ人にも、きっと参考になる論だと信じる。

 ご覧いただければ幸いであります。



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