第三部 中村草田男(ラザロの眼から詩人(ディヒター)の眼へ)
草田男の作品と論と来し方を丁寧に紹介している。しかも、各句集から主要な作品を抽いて、迎合することなしに論評している。この著『昭和俳句の挑戦者たち』の分量の約半分を占めている草田男論なので、小生のブログに別項をたてて、続編として紹介する(草城、誓子、窓秋、白泉については前のブログを参照ください)。
草田男を熱愛する人も、近づき難い思いを持つ人にも、きっと参考になる論だと信じる。
内容を紹介する前に下記の記事もご覧いただけると草田男に対する対照的な見方が分る。
https://www.kuribayashinoblg.com/post/渡辺香根夫著『草田男深耕』(横澤放川編)
小生のこのブ上のグ記事は渡辺香根夫氏が草田男を論じたもので、その立場は熱烈な草田男崇拝者のそれである。したがって、渡辺氏ならではの草田男への深い理解があってはじめて成せる草田男論である。
これと比べて、近藤氏の該著は冷静な目で見た草田男論である。
草田男論と聞いて、小生はすぐに次の論点がどのように描かれているかが楽しみであった。それは、①俳句史の中での作品の評価・位置づけ ②哲学的な性格・精神と作品の相関性 ③論争の絶えなかった草田男への評価(特に楸邨や兜太との論争) ④芸をないがしろにする新興俳句派への批判や花鳥諷詠一辺倒の同門「ホトトギス」への批判などである。
人間探求派の俳句が難解だとされてきた中、読み手の側も鍛えられ、今日では決して難解ではなくなった。しかし、人間草田男を理解することは、相変わらず難しいままである、と近藤氏いう。草田男自身は率直すぎるほどに自分の生き方と俳句観を語っているにも関わらず、である。そして、その発言の辛辣さと極度にストイックな姿勢が相俟って、その評価は毀誉褒貶相半ばする俳人であったように思う、と氏は正直である。兜太ではないが、草田男の俳句には感銘するが、人間的には楸邨がいい、という人が多いのも分かる。小生もその一人であり、該著を読んで、それがどう変わるのかが、実は、楽しみであった。
近藤氏は草田男の三女の弓子の『わが父 草田男』から、草田男の俳句作りは……写生を基本に、自分の理想を作品に昇華させることによって現実を乗り越えようとした。生活上の現実(存在・ザイン)と格闘しながら当為(ゾルレン)の形象化を目指した。草田男にとって作品に昇華された世界は嘘や虚の世界でなく、切実なるものの反映であった。草田男は「作品化」という意識を強く持って俳句を作った。現実を思惟によって超えようとするのが自己の作品化である。家庭内の屈折した男一人の在り様が作品化されている……などと述べている。
幼少期・父母の不在
草田男は明治三十四年、父の勤務先中国の福建省で生まれ、三歳で故郷松山に帰国した。のちの父の帰国により東京に出て麹町に住んだ。四十四年には青山に移転(西南小学校にはあの有名な〈降る雪や〉の句碑がある)。その後も父の海外勤務が転々と続き、草田男はまた父母と別れて松山の祖母と暮らすこととなる。度重なる転校や父母不在の幼年時代が、草田男の精神性に多分に影響を与えたようだ。
俳句は十六歳のとき、遊び程度に「ホトトギス」に投句したが、全ボツであった。大正七年(十七歳)には親友との離反などがあり、強度の神経衰弱となり、松山中学を休学、「生の不安」に悩んだ。九年に復学。ニーチェと聖書に出会う。
青年期・ラザロの眼
二十歳で旧制中学を卒業し、のち松山高校入学に失敗。翌年入学したが、暮らしを共にしてきた祖母が急逝。身近な人の死から「死の恐怖」の圧迫感に苛まれ「ある異常な心理体験」(臨死体験とも「ラザロの体験」とも言われる現象)に遭遇する。
大正十三年、ニーチェを奨めてくれた従兄の三土興三が自殺。強い衝撃を受ける。一家の東京移転にともない、東京大学に入学、独逸文学科に入る。チェホフを耽読。十五年、父親逝去。また神経衰弱に陥る。この精神的苦境の中で斎藤茂吉の歌集『朝の蛍』に運命的に出会い、のち、その感動を「現代人として、素手で生きていく、その『求道』と完全に一致した『写生』の真面目をここに見た」と書いている。後年、虚子と茂吉の写生論義が持たれるが、そのとき、草田男は茂吉の論に軍配を上げている。茂吉の写生は、命を写すこと、実相を観入することによって自然の命と自己の命が一元となった生を写すというものであった。古い「ホトトギス」を読み漁り、俳句の勉強に励んだ。昭和四年、丸ビルに虚子を訪ねて入門を願い、結局は東大俳句会への参加を勧められた。昭和五年、草田男は「ホトトギス」の写生文の会である「山会」に入る。翌年、国文科に転科、東大俳句会の幹事となる。昭和八年、ようやく卒業。三十二歳であった。成蹊学園の教師となる。遅れた青春期に入って行く……どこか大人になりきれない側面を遺しながら。
第一句集『長子』
昭和十一年に第一句集『長子』を上梓した。三十五歳であろうか、この年、結婚している。草城の「ミヤコ・ホテル」に論争を挑んだ年でもある。『長子』は「ホトトギス」雑詠欄で虚子選を得たものが主体で、まぎれもなく「ホトトギス俳人草田男」である、と近藤氏は書き、多くの作品を掲げ解説している。ここでは少数に絞るが、最後から二句目の〈紅雪〉の句を除いて、小生には、懐かしい。
校塔に鳩おほき日や卒業す
玫瑰や今も沖には未来あり
秋の航一大紺円盤の中
降る雪や明治は遠くなりにけり
冬の水一枝の影も欺かず
紅雪惨軍人の敵老五人
妹ゆ受けし指環の指を手袋に
この句集の序文に、虚子は草田男の「秋の航」の句を取り上げている。虚子に伴って北海道を訪れた際の句である。
跋に、草田男は「人間は自然の一部として生きており社会の一員数として生きている。そのことを自覚することが自己実現の必要要件である」という意味のことを書いている。近藤氏は、これは、外界と分断された草田男の「ラザロの眼」の精神的苦境が前提にあるのだろうが、それよりも、草田男が目指す文学、詩、俳句を述べているのだ、と解釈している。それは、草田男が後に書いたように「旧来の詩人のイメージは、感覚感情が豊かであり、外界の刺激に対して常人より激しくかつ繊細に反応し、美しい詩を紡ぎだす人というものだった。しかしそこに於ける抒情は、詩人個人の域を出るものではなかったがために力の弱い詠嘆に終わっていた。むろん抒情そのものは個人の体験と感性に根ざすものだが、詩人たるべき者は個人的経験(個、特殊、実存)の背後に絶対(全、普遍、本質)を追求すべきである。外界に対して受け身ではなく主体的に関わることによって、〈個人〉は〈自己〉になり得る」という記述から、近藤氏はこれが、草田男が詩人(ディヒター)を目指す宣言であったと考えている。そうして、これが、草田男に対する周りからの多くの批判に対する宣言でああった、という。
第二句集『火の鳥』
草田男は第一句集の跋で、伝統を無自覚に受け入れるのではなく、新興俳句に追従するのでもなく、「俳句の伝統を引き受け、これを生かすと共に、現代社会からの働きかけを受け止めて俳句の〈文芸価値〉を高めるべく、もはや自分の〈分身〉ともなった俳句の道を進む」と宣言した。それから三年後の昭和十四年、第二句集『火の鳥』を刊行した。新興俳句運動が盛んになり、一方で、自からが人間探求派とされていた頃であった。草田男の難解さが、俳壇一般からだけでなく「ホトトギス」内部からも批判されていた頃でもある。それに対し、草田男は複雑化した現実に自分の表現技術が追い付いていない、と反省しながらも、時代の先端を行っているのだ、と自負している。
金魚手向けん肉屋の鉤に彼奴を吊り
直情的な句が出てきたが、一方で、新鮮な詩情をおだやかに表現した句も多い。
妻抱かな春昼の砂利を踏みて帰る
萬緑の中や吾子の歯生え初むる
草城の「ミヤコ・ホテル」はもっぱら架空の対象としての新妻の女性性と女体性を詠っているのに対し、草田男の「妻抱かな」は自分の側に軸を傾けて詠っている、と近藤氏は弁護している。
第三句集『萬緑』
壮行や深雪に犬のみ腰をおとし
「草田男の犬論争」にまで発展した句。昭和十五年ころ、俳句弾圧事件がピークとなっていた。官憲の目は草田男にも及んでいた。小野蕪子が草田男を「ホトトギス」の異端と見做していたのである(この辺は拙著『俳人探訪』の「三鬼名誉回復裁判考」にもあります)。
戦後の草田男―ニーチェ
戦後すぐに桑原武夫の「第二芸術」が大きな話題となり、新俳句人連盟発足と分裂、現代俳句協会創設などがあった。戦争に協力した俳人を糾弾する動きもあった。草田男も楸邨を攻め立てた。激変の時代である。
蟷螂は馬車に逃げられし馭者のさま
焼跡に遺る三和土や手鞠つく
空は大初の青さ妻より林檎うく
そして「萬緑」創刊である(昭和二十一年)。竹下しづの女の「成層圏」の関連で、草田男が学生たちの俳句指導に当たっていた。ここで金子兜太が現れる(出沢珊太郎と一緒。金子兜太『遠い句近い句―わが愛句鑑賞』や拙著『昭和・平成を詠んで』の「金子兜太」の項参照)。
草田男は句集『来し方行方』を刊行した。メッセージ性の強い句が多い。
炎熱や勝利の如き地の明るさ
「敗戦の悲嘆」を超えて「栄光の存在」たるべく生きようとする草田男の背後に、近藤氏はニーチェを観ている。こうした考えが社会性俳句に繋がり、誓子らの「根源俳句」への批判の基盤となってゆく、と近藤氏はいう。
第五句集『銀河依然』―詩人(ディヒター)の行方①
『銀河依然』は昭和二十二年から二十七年までの作品で、年齢的には四十六歳から五十一歳。戦後間もない窮乏と精神的無気力に陥ったころである。跋には「肯定と巧妙の方向を模索しつつ前進」した様が読み取れる。しかし、近藤氏は「俳人草田男のピークを成す句集だが、手放しでほめられる作品ばかりではない」と厳しい。
いくさよあるな麦生(むぎふ)に金貨天(あま)降(ふ)るとも
浮浪児昼寝す「なんでもいいやいしらねえやい」
厚餡割ればシクと音して雲の峰
草田男の作品はよく「詰屈難解で、どう好意的に理解しようとしても真意を補足できない」ものがある、と批判されたが、この『銀河依然』にもそれはある。その批判に対し、草田男は「作者の精神や意識の生活体験を理解しようとせず、それを踏まえた〈意識のデザイン〉を拒む読者を説得することは無駄だ」と切り捨てている。これは独断的すぎるが、これも畢竟、草田男の特性だ、と近藤氏は書いている。
誓子らの「根源俳句」を批判した草田男だったが、跋には「第三存在」なる言葉が出てくる。この言葉は草田男一人の思念に留まった感があり、句集『来し方行方』でも『銀河依然』でもそれが成就した形跡はみられない、と近藤氏は評している。
第六・七句集『母郷行』・「美田」―詩人(ディヒター)の行方②
近藤氏は、ここでも跋文を取り上げている。『母郷行』の跋に「個々の作品の多少の部分的不備などは、さしたる問題ではなく」との記述があるようだ。近藤氏は、「言葉の表現に厳しいはずの草田男らしくなく」「致命的」だと断定する。スケッチの域を出ない作品もあり、首をかしげたくなる、ともいう。
真直ぐ往けと白痴が指しぬ秋の道 『美田』
この二つの句集を見ると、草田男が俳句論として主張した新しい時代に即した抒情の変革を、実作に於いて不断に試みようとした姿勢がうかがえる。しかし、その後再び長い空白が生まれている。人間草田男の中で地殻変動が起きた結果であるようだ。
草田男の終焉―『時機』・『大虚鳥』
『美田』のあと十三年経って生前最後の句集『時機(とき)』が昭和五十六年に発行された。草田男は七十九歳であった。いままで活発に俳壇で発言してきた草田男だったが、このころは隠退した感じであった。兜太との論争、現代俳句協会分裂、俳人協会会長就任、同退任などなど、現代俳句史にのこる諸事が連発し、草田男は精神的に弱っていたようだ。草田男はこの頃二回目の臨死体験に出会っている。感冒による長期療養もあり、精神状態は強度に衰弱していたようだ。三女弓子と兜太の会話が『語る 兜太』の中にあり、草田男が「兜太の攻撃により疲れ果てて寝込んだ」「兜太の犠牲者」だと弓子が言ったとある。兜太にすれば濡れ衣だったであろう、と近藤氏は兜太に同情している。
『時機』には群作ものがある。しかし、秋桜子や誓子の連作ものと比べて見劣りがする、と近藤は評している。
昭和五十八年、草田男は長逝した。八十二歳であった。
没後、二十年後の平成十五年に、成田千空らが精選して『大虚鳥(おおうそとり)』を上梓した。小生の周りの草田男ファンがこの句集を熱烈に歓迎していたのを、小生は覚えている。しかし、近藤氏は、「大虚鳥」が草田男自選でないことを慮り、ここでの論考には加えていない(このことは完璧を期する上からは残念なことだったと、小生は思う)。ただし、横澤放川が『大虚鳥』から七十八句収録して成した『中村草田男句集 炎熱』は確認し、中から草田男らしい作品を引いている。
曼殊沙華飯粒こぼし銭落し
偏向なかりし一生や熾烈曼殊沙華
二句目について、他の追従を許さないほどの巨いなる偏向の一面を持った草田男がこう詠んでいることに、苦笑を禁じえなかったと、近藤氏は書いている。しかし、良くも悪くも、草田男の思念の在り様を示す句である、とも述べている。
近藤氏は、最後に二つのこと、①詩人(ディヒター)の行方 ②草田男とはなんだったのか について述べる。結論的な部分である。
①独逸語のディヒターとは、絶対(永遠性、無限性)を探究することであり、俳句表現として言えば、その絶対を「個人の具体的経験の内的把握として、直接に把握しようとする」ことであった。しかし、絶対の探究という命題は永遠に道半ばならざるを得ない類のものだ。そしてある時を境に、草田男においてこの志向が後退した、あるいは方向を転じた、と近藤氏は見ている。ニーチェの思想に対する考え方の変化である。超人思想のニーチェは蔭をひそめてしまっている。それと軌を一にして、祈りといったものの方向に向かい始め。詩人(ディヒター)という強い意志の志向からすこしずつルビの取れた、穏やかな一個の詩人となって行ったように思われる(小生の意見は、最晩年ですら、草田男にはまだまだ強い観念的なものを感じ、しかも、決して枯れていない、と思っているのだが……)。
②昭和の俳句における草田とは何だったのか? 新しいブドウ酒は新しい革袋に盛れという言葉があるが、「ホトトギス」を離れた草田男がめざしたのは、新しい思想は新しい形式に容れねばならないということだった。草田男が批判した新興俳句派や戦後の前衛派にもそれは言える。同じ地平に立っていたと言える。そうした中で草田男が特徴的だったのは、屈折とダイナミズムだと近藤氏は見ている。みずからを守旧派とは言わず「守胎派」と言った。同時に新しい時代の俳句に変革しなければならなかった。「絶対矛盾の自己同一」である。若き日に精神を病み、そこからの脱却の手段が俳句であった草田男にとって、俳句という表現形式が草田男自身の存在理由となっていた。したがってその根本にあるものは否定すべくもなく、それを守りつつ新しい時代に生かすと考えるほかはなかった。これが他の俳人よりも強い波形となって表れた草田男の屈折であり、同時にその思いの強さから草田男固有のダイナミズムが生まれたのだ。ある意味で彼もまた。紛れもなく前衛であり、改革者だった。伝統を破壊しなかった点で、アヴァンギャルド的な前衛ではなかった。俳句という特殊な表現形式においてこうしたことを追求したこと自体は、そこに無理が生じたことも確かであるが、昭和俳句史の中でその俳句論の果たした役割(刺激と活性化を含めて)と作品が与えた影響において、特筆すべきものとして評価されるべきであろう。現代俳句の現代性を高めた一人であることは間違いない
小生自身の読後感をも書かねばなるまい。該著により、懐かしく草田男を取り戻すことが出来た。そして、思いはやはり、草田男は歴史的俳人であったという思いである。ただし、私にとって、非力なせいもあろうが、草田男の作品は、自らが批判した「ホトトギス」時代のものが、私の脳裏から離れないのだ。
Comments