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高山れおな句集『百題稽古』

  • ht-kurib
  • 1 時間前
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 高山れおなさんの句集『百題稽古』を読む機会を得た。高山さんは、多くの俳句業績の上で、また「朝日俳壇」の選者として、よく知られている方。この句集は、高山さんが選んだ古典の和歌集の三百首から題を決め、それを俳句化したもので、第五句集にあたる。2025年4月24日、現代短歌社発行。


 古い和歌集(「堀河百首」「永久百首」「六百番歌合せ」)から選ばれた三百の「題」にもとづいて、一句一句を「稽古」の意識で作成し、句集に編まれた。形式は「題詠」句集で、内容は極めて独創性の強いものである。若いころから親しんでおられた古歌に出てくる古語や雅語に精通しておられるからこその成果であると思う。小生のような理系育ちの人間には、鑑賞するにいささか骨の折れる句集でもある。辞典片手に奮闘せざるを得なかった。しかし、言葉の意味が分かると、霧が晴れ、難しさが解けてくる楽しさがあった。二、三度読み返すと、平明になってくる句がかなりあることにも気が付く。

 栞は、藤原龍一郎と瀬戸夏子の評文、それに、ご本人と「月間狂歌」の花野曲編集長との対談が載せられている。

 栞の中で知ったのだが、高山さんは、次の作句五原則を設定しておられる。読む上で参考になった。甚・擬・麗・痴・深である。


甚 甚(こってり)を旨とし(味付けは濃いめに)

擬 古詩に擬(なぞら)え(本歌取りとアナクロニズム)

麗 麗しいきを慕い(姿は美しく)

痴 痴(おろか)かに遊び(中身は狂っている)

深 心は深く(深く生きている感じがほしい)


 句集に通底している気分は、若いころからの「新古今集」などへの陶酔からくる、氏の王朝和歌回帰志向であり、昔の和歌や俳諧の「題詠」復活をも意図しておられるようだ。和歌からとった「題」であるから、その題が、前書化する場合もあるし、たんなる詠み込みのお題にすぎない場合もある。その場合は、原典の和歌を意識しなくても読める。

 山本健吉は滑稽・挨拶・即興といったが、高山さんは滑稽・挨拶・題詠だという。題詠を重要視されておられる。また、滑稽の点では、和歌では詠まれないモチーフや用語が今回の俳句化ではふんだんに使われているようで、その点でも面白い。

 三百句からなっているが、個人的には、恋の部が一番面白く、納得が行った。


 自選句が提示されていないので、小生の気に入った句を順に挙げていこう。題は括弧で示しておいた。本来なら、原典に遡って元歌を理解してから鑑賞すべきであったかもしれないが、取り敢えず「題詠」であることに免じて、原典に関係なく鑑賞させて戴いた。


013 さわらびや何を握りて永き日を(早蕨)

 手に握る「さわらび」の質感が心地よい筈。人はいつも何かをこころの中で握り締めながら生きてい行くのであろう……などと、想像を広めながら読んだ。昔は季重なりにはおおらかであったことを、小生は思い出している。

014 春雨や既視感(デジャ・ビュ)のほかに俳句なし(春雨)

 ルビ(括弧で示した)の付け方が意欲的である。この手法は短い形式である俳句には特に有効で、小生も試みて見たくなった。この句集にはこの例が多く、その意味でかなり啓蒙的でもある。

018 双蝶の激してしづか濃山吹(款冬)

 題は「款冬」で、辞典によれば、蕗の薹かまたは石蕗のこととある。しかし、「濃山吹」を用いている。しかも「双蝶」と一緒に! これも季語が二つあるが、詩として、その必然性は分かる。

020 花は葉に人は渚にころもがへ(更衣)

 これも季重なり。こうも確信的に季重なりを繰り返されると、今まで拘って来た小生の習慣が間違えだったか、と思わせられる。そうして、季重なりがむしろ自然なのだと思い返させられる。以降も気重なりが多く出てくるが、いちいちこと上げするのはやめておこう……当方の拘りの古さを露呈することになるであろうから。

022 光年の駅の別れやほととぎす(郭公)

 よく「光年」を持ってこれたものと感心している。おそらく「光年」という用語も概念も古典の和歌の世界にはなかったであろう(「光年」は19世紀中ごろ、ドイツで初めて使われたようだ)。だから、この句は、原典を意識せずに現代俳句として味わって良いのだろう。従って「駅」も律令で設けられた歴史上の「うまや」とは違って、近現代の駅。「ほととぎす」だけがむかしからのもの。

026 白靴と白蓮の有職故実(プロトコル)、跳べ(蓮)

 この句も014と同じく、ルビが面白い。かつ、句読点を効果的に使っている。真似て見たくなる。

026 冷蔵庫漁れば顔に雲の冷え(氷室)

 「氷室」から「冷蔵庫」への展開。それは時空の展開でもある。

027 なまあしの像たゆたへる泉かな(泉)

 この句からは、ドミニク・アングルの名裸体画を思い出した。題も、ぴったり「泉」である。

030 御乳付(おちつけ)のまぶた薄さよ女郎花(女郎花)

 「御乳付」役の女房(にょうぼ)の面差しと「女郎花」が感覚的に絶妙。

035 霧ながら嘶き満つる駒迎へ(駒迎へ)

 「駒迎へ」が宮中の八月十五日の行事と知ると、「霧」にはそぐわないのではと思ったのだが、別の事典では、宮人が近江の逢坂関まで出迎えること、とあるので納得。

041 そにどりの青かきくらし六つの花(雪)

 「そにどり」は翡翠のこと。それに「雪」が配合された。いや、そうではなくて、「そにどり」は「青」にかかる枕言葉に過ぎないと知れば、ああ安心。晴天の雪しぐれだろうか?

043 凍り飛ぶ夢や飛行機雲の尖(さき)(氷)

 飛行機雲は微細な氷の粒だと知れば納得。やや理屈っぽいが、「夢」で詩になった。

045 炭焼くや塩の柱の妻いづこ(炭竈)

 振り返ったので、神の罰として、「塩の柱」にされてしまった、というロトの妻のこ

と。旧約聖書が出て来た!

047 命とは白シャツに透く君なりき(初恋)

 恋の句が一番安心して読めた。三鬼の〈おそるべき君等の乳房夏来る〉を思い出す。

049 夢殿や開けても開けても鳥の恋(初逢恋)

 「開けても開けても」から重信の〈「月光」旅館/開けても開けてもドアがある 〉、さらに〈月下の宿帳/先客の名はリラダン伯爵〉を思い出させる。この句集には、本歌取りや先達作品へのオマージュがあり、それらしいと思い当ると、とても楽しい。

057 来るな来るなの勿来の関も霾れる(関)

 勿来の関には何度も行っており、福島の海通りなので、どちらかというと、霾天には遠い地域。むしろ黒潮と親潮のぶつかる地域で「霧」が多い。源義家の像があったと記憶している。〈吹く風を勿来の関と思へども道もせに散る山桜かな 義家〉

058 戦艦重信蜃楼(かひやぐら)から撃つてくる(海路)

 日本の軍艦の名を詠んだ重信へのオマージュ。

059 雪加鳴く秘密の旅の豆御飯(旅)

 旅の宿の「豆御飯」はいいですね。平明な、市井の俳人の句のよう。このような句があると、何故か私は安心する。「秘密」でこの句は立ってくる。

061 ふらここのあのこ消えにし桜かな(懐旧)

 これも059と同じ味がある。

069 曙(いなのめ)や否みてさめし春の夢(春曙)

 「いなのめのいなみて」の頭韻の妙。言葉遊び的だが、枕詞の効果で落ち着いた和歌の風味が出ている。

069 かがよひて遊べる糸か我もまた(遊糸)

 「遊糸」を「遊」と「糸」に分解して遊んだ。

072 ゆさはりの神へ千本鳥居かな(稲荷詣)

 「ゆさはり」が「ぶらんこ」の古語だと知ると、景が見えてきた。

078 草いきれいよよ魅死魔の胸毛なら(夏草)

 「魅死魔」は三島由紀夫のことと思いたい。

082 蟬鳴くや敵ある如く焼く如し(蟬)

 ジージーという鳴き声が「焼く如く」なのだろう。そこまでは単純なのだが、「敵ある如く」で一挙に句意が重くなってくる。

084 紫陽花の残党かすむ残暑かな(残暑)

 「紫陽花」の枯れ始めの姿を「残党」といった。枯れても散らず、「かすむ」だけで、「残暑」がきびしい。

090 立死(たちじに)のむかしをとこや蔦紅葉(蔦)

 「むかしをとこ」から在原業平を思いました。「立死」や「蔦」がどう絡まってくるのかは分かりかねました。

091 独り聴けははそもみぢの風鳴りは(柞)

 雑木林の里山が紅葉している。古歌によく出て来るらしい。〈佐保山のははその色はうすけれど秋はふかくもなりにけるかな〉(坂上是則)が見つかった。音からして、どうしても「母」に繋げて読んでしまう。余情のある句。

095 御輿ゆく四方しらゆきの紫野(野行幸)

 洛北の「紫野」と「しらゆき」の配合。「ゆく」と「ゆき」の音調。優雅な王朝諷詠。

101 我が孤火も霜夜は遊べ狐火と(忍恋)

 万葉集では「恋」を「孤悲」と表記したらしい。高山さんはそれを「孤火」と同音異字

に置き換えた。それは下五に来るべき「狐火」への伏線である。意図的に同音異字語を使った俳人で思い出すのは攝津幸彦である。高山さんも言葉の音を楽しんでいる。ところでこの句、「忍恋」のお題によく合っている。談林的な味を感じた。

105 梅雨寒し恋が寝覚を刺しに来る(寝覚恋)

 「寝覚めを刺しに来る」とはどんな恋なのか? それほど切ないのか? それとも邪恋なのか? 元歌を辿れば分かるのかも。

106 息白き別れは星の匂ひかな(別恋)

 美しい。「恋の部」が小生には一番しっくりくる。この句は小生イチオシの句。

108 湯の澄みに寂光残り草城消ゆ(出湯)

 日野草城なのだろうか? 小生は読み切れていないが、気になる句。

113 きつね雨月の桂の雫とも(桂)

 壬生忠岑の〈ひさかたの月の桂も秋はなほ紅葉すればや照りまさらむ〉に関係するのか

も知れないが、明るい天気雨の形容として宜える。  

115 豹変の成人祭の豎子(じゅし)らはや(元服)

 「豎子(じゅし)」は未熟者の意。ひところ地方自治体が主催する成人の日の式典が大荒れにあれた。最近ではぴったりなくなった。学生運動と同じで、急に大人しくなった。豹変ならず猫変である。

118 万物の中の少女が米こぼす(妓女)

 正月の季語「米(よね)こぼす」に久しぶりに出会えて、意味はさておき、嬉しかった。

119 海女の笛感幻楽にありやなし(泉郎)

 春の季語「海女の笛」の作例に初めて出会った。「感幻楽」は攝津幸彦風のアレンジで「管弦楽」なのだろう。楽しく軽い句。「泉郎」が海女のことだと初めて知りました。

120 こどもの日我にもむかし隣の子(隣)

 このような句なら私にも詠めそうだと嬉しかった。でも、深い意味があるのかも。

128 野遊びの心来にけりかく遠く(野遊)

 前句と同様、比較的平明か。

128 雉子ほろろ戦ぐは幻肢父たちの(雉)

 「雉子」から「幻肢」がよく出てきたものだと脱帽! しかし、私には未だ未消化感が残っている。

129 挽歌降るべし雲雀ほど高きより(雲雀)

 これはよく分かる。

131 ゆらゆらと志賀の山越え花吹雪(志賀山越)

 古歌によく出てくる「志賀の山越え」を巧みに読んだ。山越えには桜か紅葉が良く詠われたらしい。

141 愛されて鶉香炉の秋のこゑ(鶉)

 「鶉」の題から「鶉香炉」を連想するなんて、なんという通人かと驚く。小生ならせいぜい「麦鶉」くらいしか思いつかない。

143 秋も脱ぐ山田耕司のパンツかな(秋田)

 題の「秋(の)田」を分解して「秋」と「田」にわけて、「田」から「山田耕司」を強引に持ってきた。確信犯的な自由さに驚く。山田さんとは句会をたまに一緒しているので、「パンツ脱ぐ」の句は懐かしい。

144 鏡花幻稿総紅玉(ルビ)や蔦嵐(蔦)

 この句の解釈は藤原龍一郎さんの栞から学んだ。「蔦」から「お蔦・主税」が出て、それで泉鏡花なのだ。それだけでなく「総ルビ」の「ルビ」を「ルビー=紅玉」と書いてオマージュとした。私などは「紅玉」は酸味の強い昔の林檎の品種だと誤解するから、親切にルビーとルビを打って下さって良かった。

145 京終(きょうばて)の西日へいそぐ柞原(柞)

 奈良の南の「京終」は良く通りました。山の辺の道を何回かに分けて歩いたので、懐かしい。091と同じく、「柞原」から何となく「母」の存在を思う。

149 かへりみはせじ箸鷹の組んで落つ(野行幸)

 古典季語「箸鷹」(秋)を使った。「野行幸」は天皇が鷹狩を見にゆく行事とのことで、納得。

158 君の眼が向かうに消えて冬の金魚(別恋)

 モチーフが「別恋」なので、ほとんど動かない「冬の金魚」の鉢の向こうにいた君が消えてしまって、今はもういないのだ。恋の歌が続く。

158 新日記白ければ恋顕はるる(顕恋)

162 炎昼の鳴き砂踏んであてどなし(昼恋)

162 秋の暮潮みつるごと人恋ふ灯(夕恋)

165 茉莉花を嗅いで死ぬまで人の妻(近恋)

168 遠火事や誰(た)が愛告げて黒けむり(寄煙恋)

169 涙河ひかりやすきは夏めける(寄海恋)

 これらの恋歌のなかで、小生は165に惹かれた。若干、演歌的だが、高山さんの芸域の広さが眩しい。わが狭庭にはいま丁度ジャスミンが花盛りです。


 この句集、写生句のように読者の眼前に景を提示するというよりは、言葉を提示して、そこから読者の自分自身の詩を創造させるような句の集まりだと感じた。芸術性を尊ぶ読者に向いた句集でありましょう。談林的な味わいがあったというと、間違いでしょうか? 

 この句集は読者を選ぶようで、私にその資格があるかどうか心配であります。


 難解な部分はありましたが、知識・情報を補いながら読ませて戴き、実にたのしい句集でした。繰り返しますが「恋」の部が一番気に入りました。


 有難う御座いました。


 
 
 

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