橋本さんは黒田杏子さんが急逝されるとは露思わず〈龍太亡き居間をつらぬく縅銃〉を詠んだに違いない。この句集『瑜伽』(ゆうが)の脱稿直後に杏子さんは、龍太が亡くなったとおなじ病院で急逝した。跋に杏子さんは「橋本榮治さんは私のもっとも信頼する友人のおひとり。その人が句友でもある事は私の人生の幸運。嬉しくありがたい事です」とある。亡くなるひと月前のことだった。氏の第五句集で、帯の12句も杏子さんの選である。角川書店、2013年6月14日発行。
橋本さんは、「馬酔木」に入り、編集長を務め、現在は「件」の発行編集長。杏子さんの良き助手役だった(と私は思っている)。また「琉」と「枻」の代表でもあられる。1996年に第一句集『麦生』で俳人協会新人賞を得ておられ、句集や俳書の著作は十件を超える。
「件」41号(2023年6月発行)は黒田杏子追悼特集号となっており、錚々たるメンバーが寄稿している。橋本さんのご苦労の賜物でもある。
黒田杏子さん選の12句は次の通り。
虫売や闇より暗く装へる
昨日満ち今日なほ満ちて八重桜
新米や青年僧にかしづかれ
露の世に母の粥炊くうれしさよ
観音の径蕪を干し雑魚を干す
良寛忌越後は海も雪の中
閂を掛けて田螺に鳴かれけり
綿虫や父母のゐるやうに灯を点し
ふくろふのこゑを眠りの中へ招ぶ
一膳は病者仕立てよ雛の宴
八月が去る遠き蝉近き蝉
龍太亡き居間をつらぬく縅銃
小生の感銘句は次の通り。(*)印は黒田杏子せんと重なったもの。
017 耳底に音の届かず雪が降る
023 野の草をごつたに活けて遍路宿
023 揚雲雀大河は水の音立てず
030 われを待つ花野の奥の一墓標
031 背高のお軽のあはれ村芝居
031 中村吉右衛門
われからや知盛碇まとひける
036 良寛忌越後は海も雪の中(*)
041 巣箱より小さき家あり園児展
046 死者のため席を空けおく祭かな
054 乗り継ぎの悪しき支線や白鳥来
061 刈りとらぬ蕗のあたりが村境
068 熊食べて心の闇を育てをり
075 船も雲も速さを忘れ春の沖
083 ひと部屋は酒の匂ひの鮎の宿
090 分校の机小作り小鳥来る
096 綿虫や父母ゐるやうに灯を点し(*)
116 父母の忌や扇と団扇となりあひ
123 下駄ばきの十指よろこぶ秋の風
125 新酒新米越の家苞みな重く
144 かなかなや妹へ喪服を着ようとは
151 龍太亡き居間をつらぬく縅銃(*)
156 音威子府駅の綿虫大いなる
どの句もしっかりとした句柄で、詠まれている「モノ」や「コト」に情が籠っている。杏子さんと選が重なった三句を鑑賞しよう。
036 良寛忌越後は海も雪の中(*)
「海も雪の中」というフレーズが素晴らしい。叙景句なのだが、「越後」で景が立ってきて、私には、出雲崎の景色が浮かんできた。さらに「良寛忌」で「情」が伝わってくる。五合庵や貞心尼のことにまでも思いが膨らんで行った。
096 綿虫や父母ゐるやうに灯を点し(*)
世に父母を恋う俳句は数多いのだが、感情語を使わずに「情」を感じさせるという、俳句の骨法に則った佳句。「綿虫」がいい。とてもいい。
151 龍太亡き居間をつらぬく縅銃(*)
冒頭にも書いたが、杏子さん急逝の状況をつぶさに書いた「件」41号を読むと、目頭が熱くなる。笛吹市で行われた「龍太を語る会」で杏子さんは熱弁をふるった。その後の急逝だった。講演後ひと足先に帰った橋本さんは、飯田秀實氏や細谷喨々氏から電話を受け、衝撃を受けたことであろう。夫の黒田勝男さんが付き添っておられたことは、私にとって、ただ一つの慰めである。
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