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谷口智行著『窮鳥のこゑ』

 谷口智行さんが『窮鳥の声」を発行された(2021年8月30日、書肆アルス発行)。

谷口さんは和歌山県新宮市のお生れで、開業医であられる。俳句は茨木和生主宰の「運河」所属で、現在、編集長兼副主宰。句集、エッセイ、評論など著作は極めて多い。

 該著は、実に800頁におよぶ厚さ50ミリに及ばんとする大著である。読了まで暫く時間がかかりそうだが、とりあえず興味をそそられた記事ひとつを紹介したい。今後、折を見て、何回かこの著作には触れるであろう。







 俳句には、読み手に伝えたい作者の切々たる思いを明確に強調して書くべきだと、日ごろから小生(栗林)は思っていたのだが、近ごろはいわゆる「ただごと俳句」もなかなか捨てたものではないと思い始めている。年のせいであるに違いない。

 深いメッセージを伝えるには、俳句という表現形式は短すぎる。意を満たそうとして言葉を詰めすぎると、俳句が軋む。つくづく、散文の方が向いていると思う。また、写生々々と言われながら、俳句という表現形式は、写生にも全く向いていない。そんなことを考えながら、脱力俳句をときどき試みたくなる。

 脱力俳句または「ただごと俳句」の対極にある「難解俳句」を考えると、メッセージ性が先行していて表現技術が追い付かず失敗する例が多い。芭蕉の不易流行に連なる俳句の考え方に「深く考え易しく語れ」という言があるようだ。芭蕉の俳句の究極の姿として「軽み」があるが、これは「高く悟りて俗に帰れ」の精神である。世の中には高く悟らずにもっぱら「俗に帰る」ごとき作品が横溢している。それらはただ単に「ただごと俳句」であるに過ぎない。もっとも、「深く悟らず難しく語る」のは、自己満足以外、何の役にも立たない。少なくとも「深く悟ったのだが、やさしく語るべく修行中である」なら読み手としては、我慢のしようもある。つまり、「難解俳句」の多くは、「深く悟らず難しく語」ってしまっているのではなかろうか。それとも、高く悟ったものの、それを易しく表す技術を持たなかったかであろう。

 では、ただごと俳句は、俗に帰っただけで、質は低いのか、という議論は当然あろう。


 そんなことを思っていたとき、谷口智行氏の著作『窮鳥のこゑ』の中の多くのエッセイの一つ「ただごと」に出会った。「ただごと俳句」の好例を紹介していた。


(引用)

  パン焼いてゐてカレンダー四月にす   岡本 眸

  蹤いて来るアイスクリーム屋に困る  後藤比奈夫


「ただごと俳句」は日常におけるさまざまな事物に愛情を寄せ、時にほのぼのとしたユーモア、哀感、時に社会や時代へのアイロニーをこめて問いかける。詠まれた内容を「ただごと」とするかしないか、あるいは「ただごと」であってもそれを評価するかしないか、人によって俳句観の相違がある以上、意見が分かれて当然である、と述べ、さらに例を加えている。

  とれさうもなき烏瓜だけ残る    大慈弥爽子

  牡丹見てそれからゴリラ見て帰る   鳴戸奈菜


 以上が谷口さんの論だが、これを読んで小生は、強い思いを一句に詰め込んでいきり立っていた自分を思いだしていた。つくづく、後藤比奈夫さんを見習って、脱力俳句を目指そうかと考えているこの頃である。

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